背戸側町

せとがわちょう


昭和17年2月1日、大字名を廃止し町名を設定。もとは瀬戸の一部で、明治期の瀬戸村大字瀬戸字瀬戸字背戸側の一部。背戸は瀬戸の元の字であるとか、猿投山の裏側ともいわれる。

滝之湯町

たきのゆちょう


昭和17年2月1日、大字名を廃止し町名を設定。もとは瀬戸の一部で、明治期の瀬戸村大字瀬戸字背戸側・池田・印所の一部。昔この地に滝があり、冬になると湯のごとく湯気が立ち昇ったことから滝の湯の地名が生まれた。大正の初めになると、この滝ノ湯を瀬戸一大繁華街にしようということで芝居小屋、料理屋、風呂屋もでき、玉突きもできた。そして芝居小屋の前を相生町といい南側を住吉町と呼んだ
歌舞伎座

道泉町

どうせんちょう


昭和17年2月1日、大字名を廃止し町名を設定。もとは瀬戸の一部で、明治期の瀬戸村大字瀬戸字安戸の一部。昔、ここは山脇といわれ、中馬街道脇道として道の下から泉が湧き出ていた。大正14年、道泉小学校を作るのに土を運び出すと泉が出なくなったが、地元の人は学問の道は汲めども尽きない泉であってほしいという願いから道泉という地名を付けたといわれる。

京町

きょうまち


昭和17年2月1日大字名を廃止し、町名を設定。1~2丁目がある。もとは瀬戸の一部で、明治期1丁目は瀬戸村大字瀬戸字山脇の一部、2丁目は十三塚の一部であった。名古屋の出入り口として、瀬戸の玄関として賑やかになりたいという思いが京町という名前となった。

陣屋町

じんやちょう


昭和32年7月1日、大字名を廃止し町名を設定。もとは上水野の一部。文明14年、今村の松原下総守広長と品野の長江民部少輔が争い、松原軍は安土川に陣を張り、長江軍は品野村大松戸阿弥陀が峰,(品野陶磁器センター東、全宝寺)に,陣を張った。戦は松原軍が破れ敗走、城主松原氏は赤津万徳寺に逃げ自刃。後に敗者を偲び安土川,(砂取川),を陣屋河原と呼ぶ様になったと伝えられる。
上陣屋町
下陣屋町

朝日町

あさひまち


昭和17年2月1日、大字名を廃止し町名を設定。もとは瀬戸の一部で、明治期の瀬戸村大字瀬戸字池田、前側、一ノ坪の各一部。明治20年頃に池田を埋めて1本の道ができ商店が集まってきた。昭和の初め瀬戸の最初の商店街ということでこの通りを銀座通りと名付けられた。町名は朝日のごとく昇り発展することを願い朝日町と名付けられた。
銀座通商店街振興組合
久米邸(旧川本家別邸)