陶本町

とうほんちょう


昭和17年2月1日、大字名を廃止し町名を設定。1丁目~6丁目がある。もとは瀬戸の一部で、1~3丁目は明治期の瀬戸村大字瀬戸字一ノ坪の一部、4・5丁目は同一ノ坪・山脇の一部、6丁目は山脇の一部。昔から、陶器の卸問屋が建ち並び、盛況を博していたところから、この地名がつけられた。明治の末から大正初期にかけて7代目加藤半一郎町長は、陶器の町としての瀬戸町隆盛を祈願するため陶原稲荷神社に信仰していた。そして、この稲荷神社の南側を陶本町、北側を元町と名付けたといわれる。

十三塚町

とみづかちょう


昭和17年2月1日、大字名を廃止し町名を設定。もとは瀬戸の一部で、東十三塚町は明治期の瀬戸村大字瀬戸字十三塚の一部、西十三塚町は十三塚・追分の一部。明治15年の内務省調べの『愛知県郡町村字名調』には、「ジュウサンヅカ」とある。十三塚は、死者の供養・境界指標・修法壇として13の列塚を築いたものをいい、全国的に分布するが、なかでも愛知県下には数多く分布する。本市の場合、現在塚は滅失して配列も不明であり、かつ、由来を説明する史料にも欠けるが、大正4年発行の『瀬戸町誌』には「町西端安戸にあり。古墳にして明なるもの十一、其二得ず。」と記載され、当時11の塚が存在したことをうかがい知ることができる。13の塚があったのか、あるいは塚の多くあることをいったものかは定かでないが、いずれにせよ十三塚が地名となった。この地付近は「瀬戸村城主加藤光泰の桜川合戦」・「今村城主松原下総守広長の若狭ヶ洞の一戦」といった戦国時代の合戦伝説があったり、長久手合戦の落武者にまつわる昔話が残っている。
東十三塚町
西十三塚町

仲切町

なかぎりちょう


昭和17年2月1日、大字名を廃止し町名を設定。もとは瀬戸の一部で、明治期の瀬戸村大字瀬戸字池田・前田・背戸側の一部。水野から来るのに乗越しを越えて切通しを通って来ることからここを仲切町と名付けたといわれる。
忠魂碑

京町

きょうまち


昭和17年2月1日大字名を廃止し、町名を設定。1~2丁目がある。もとは瀬戸の一部で、明治期1丁目は瀬戸村大字瀬戸字山脇の一部、2丁目は十三塚の一部であった。名古屋の出入り口として、瀬戸の玄関として賑やかになりたいという思いが京町という名前となった。

陣屋町

じんやちょう


昭和32年7月1日、大字名を廃止し町名を設定。もとは上水野の一部。文明14年、今村の松原下総守広長と品野の長江民部少輔が争い、松原軍は安土川に陣を張り、長江軍は品野村大松戸阿弥陀が峰,(品野陶磁器センター東、全宝寺)に,陣を張った。戦は松原軍が破れ敗走、城主松原氏は赤津万徳寺に逃げ自刃。後に敗者を偲び安土川,(砂取川),を陣屋河原と呼ぶ様になったと伝えられる。
上陣屋町
下陣屋町

朝日町

あさひまち


昭和17年2月1日、大字名を廃止し町名を設定。もとは瀬戸の一部で、明治期の瀬戸村大字瀬戸字池田、前側、一ノ坪の各一部。明治20年頃に池田を埋めて1本の道ができ商店が集まってきた。昭和の初め瀬戸の最初の商店街ということでこの通りを銀座通りと名付けられた。町名は朝日のごとく昇り発展することを願い朝日町と名付けられた。
銀座通商店街振興組合
久米邸(旧川本家別邸)