宮脇橋

みやわきばし


大正14年(1925)8月、瀬戸地方を襲った未曾有の集中豪雨で、瀬戸川にかかる木橋はことごとく流されてしまった。それ以後、主要な橋のコンクリート橋化が進められ、宮脇橋も昭和2年(1927)にできた。
昭和61年(1986)4月には、陶磁器産業振興の一環として、1000年余のやきものの歴史をもつ瀬戸市にふさわしい観光資源の整備と、陶磁器産地の誇りとしてのシンボルづくりを兼ねて進めている「やきものを使った街づくり事業」の一つとしての欄干改築工事が竣工した。改築概要は、上流側と下流側の欄干の小柱に十二支をあしらった、黄瀬戸に青織部のかかった陶板をそれぞれ12枚づつはめ込むもので、陶芸家山田朝春の得意とする陶彫によるものである。小柱は上端部が、地上面から70㎝のところで外側へ30度の角度で広がっており、開放感のあるデザインとするとともに陶板を見易くしている。小柱全体は、磁器質タイル仕上げである。陶板は、黄瀬戸に青織部をかけたものである。

山脇橋

やまわきばし


瀬戸川を基軸に周辺市街地の再開発等の街づくりと河川や道路等の公共施設の整備を一体的に行い、新しい観光資源の創出、にぎわいのある街づくりを推進する瀬戸川文化プロムナード計画として、平成4年(1992)11月5日に完成した。
高欄部をコバルト色の陶器で装飾するとともに、橋梁の形状や照明等のデザインに工夫を凝らしている。

山脇橋

記念橋人道橋

きねんばしじんどうきょう


中心市街地の活性化を目的とした「瀬戸川文化プロムナード」計画のなかで、瀬戸川(瀬戸大橋~記念橋)・瀬戸川プロムナード線の整備とともに橋梁の整備が進められており、瀬戸記念橋人道橋が完成し平成21年(2009)9月11日に渡り初め式が行われた。
記念橋人道橋は、やきもの装飾が施されている。瀬戸市制80周年に合わせて瀬戸ロータリークラブが寄贈した。同会員の陶芸家亀井勝、加藤令吉、加藤唐三郎、森脇文直、加藤孝爾が手掛け、親柱台座の上部は炎をイメージしたモニュメント、欄干には陶板が設置されている。また、親柱には栗木伎茶夫が揮毫した橋の名前入りの銘板がはめ込まれ、欄干上部にはガラスの展示ケースが設置されており、瀬戸陶芸協会会員の作品が展示されている。

記念橋人道橋

共栄橋

きょうえいばし


大正14年(1925)の大水害で、県道名古屋瀬戸線の瀬戸駅付近と今村付近の瀬戸川南岸堤防がくずれ、この災害によって新しい道路の建設運動が今村でおこり、耕地整理で計画されたのが八間道路で、昭和のはじめには、まず現在の市役所前付近から共栄橋までの間が完成した。昭和14年(1939)頃から隣りの旭町で、県道名古屋・瀬戸線の改修のための土地買収がはじまり、昭和12年(1937)末には共栄橋が改築され、昭和18年(1943)末に名古屋・瀬戸線の路線変更が行われ、共栄橋~八間道路が県道となった。
昭和12年(1937)に架橋されたもので老朽化により、平成7年(1995)10月から工事がはじまり平成9年(1997)9月17日に完成をみた。

新共栄橋(新大橋・丸山橋)

蔵所橋

くらしょばし


「蔵所」という地名は江戸時代、尾張藩がやきものの生産販売を統制し藩の財源を確保するため、この地に御蔵会所という役所を置いたことに由来している。明治以降も、官庁などがここに集中し当時としては立派な木橋が架けられていた。大正末期の大水害のあと、コンクリート橋が架設され、戦後再築されて平成の時代に至っていた。
中心市街地の活性化を目的とした「瀬戸川文化プロムナード」計画のなかで、瀬戸川(瀬戸大橋~記念橋)・瀬戸川プロムナード線の整備とともに橋梁が検討され、蔵所橋と南橋は道路橋としての役割を終えることになり、平成21年(2009)11月初旬取り壊され、長い歴史を見つめてきた橋が姿を消した。

公園橋

こうえんばし


大正14年(1925)8月、瀬戸地方を襲った未曾有の集中豪雨で、瀬戸川にかかる木橋はことごとく流されてしまった。それ以後、主要な橋のコンクリート橋化が進められ、公園橋も昭和2年(1927)にできた。その昔、この橋はお猿橋と呼ばれていた。
「やきものを使った街づくり事業」の一つとして整備されたもので、平成6年(1994)8月30日に13番目の橋として完成をみた。鳥のノベルティを貼り付けた透かしの磁器板を高欄にはめ込んでいる。歩道も、地場産品である煉瓦タイルが舗装されている。

十三橋

じゅうさんばし


大正14年(1925)8月、瀬戸地方を襲った未曾有の集中豪雨で、瀬戸川にかかる木橋はことごとく流されてしまった。それ以後、主要な橋のコンクリート橋化が進められた。十三橋もこの大洪水で流れたため、架け替えられた。この橋は上流から順に刎田橋、藤四郎橋、公園橋、東橋、中橋、宮脇橋、神明橋、宮前橋、蔵所橋、窯神橋、南橋、瀬戸橋の次、十三本目の橋ということで「十三橋」と命名されたと云われているが定かではない(記念橋、山脇橋は十三橋より後で架けられた)。
その後、昭和27年(1952)12月に改築され、その後平成9年(1997)から3か年の継続事業で架け替え工事が行われ、平成12年(2000)3月21日に完成した。高欄はやきものではなくステンレス製で、デザインは住民参加によるワークショップで決定した。

十三橋

新京橋

しんきょうばし


瀬戸川の十三橋と吉田橋の間に架かる橋で、平成5年(1993)11月1日に完成している。
親柱は御影石を台座にし、その前面を凹曲線にして柔らかさを表現するとともに、ワインレッドの磁器板を貼り、支柱にも同様の磁器板を取り付けている。

神明橋

しんめいばし


大正14年(1925)8月、瀬戸地方を襲った未曾有の集中豪雨で、瀬戸川にかかる木橋はことごとく流されてしまった。それ以後、主要な橋のコンクリート橋化が進められ、神明橋も昭和2年(1927)にできた。
現在は橋も拡幅され、昭和61年(1986)4月には、1000年余の長い歴史と輝かしい伝統に培われたやきもののまち「瀬戸」にふさわしい景観の整備、シンボル作りのため「やきものを使った街づくり事業」の一つとして、欄干改築工事が竣工した。瀬戸クラフト協会のデザインで瀬戸の「陶土山」をイメージしたもので、稜線にあたる部分は染め付けのモザイクタイルで表現し、陶土の部分は量感のある陶器で表現されている。また、親柱と小柱は御影石のたたき仕上げとなっている。

神明橋

瀬戸の橋全般

せとのはしぜんぱん


いくつもの川が街を流れ、人々の暮らしと共に川がある街瀬戸。そこにはやきものによる装飾が施された橋が架けられています。やきものの街ならではのその風情に道行く人の心も和みます。公園橋、宮前橋、宮脇橋、吉田橋、今村橋……。さまざまな技法を使い、それぞれに意匠を凝らした欄干は、二つとして同じものはなく、時を重ねるごとに落ち着いた風合いを増していきます。川の向こうとこちらをつなぐだけでなく、人と人、人とやきものを結ぶ架け橋として整備した。