中橋

なかばし


大正14年8月、瀬戸地方を襲った未曾有の集中豪雨で、瀬戸川にかかる木橋はことごとく流されてしまった。それ以後、主要な橋のコンクリート橋化が進められ、中橋も昭和2年にできた。

中橋

藤四郎橋

とうしろうばし


刎田町と寺本町をつなぐ橋を今は公園橋といって鉄筋コンクリートの永久橋となっているが、明治45年の豪雨のとき半壊して通行禁止となったため、その上流50mあたりのところに仮橋が架けられた。土橋であったが、便利とあって公園橋がコンクリート橋になってからも残され、現在はないが藤四郎橋と呼ばれていた。

陶原歩道橋

とうげんほどうきょう


愛知県陶磁器工業協同組合の建物(愛陶工会館)前に架かる人道橋で、瀬戸川文化プロムナード整備事業の一環として、平成6年(1994)5月22日に「ふれあい大陶壁」とともに完成した。
橋梁上部全体をやきものタイルで装飾し、周辺景観と整合した明るいイメージでデザインしている。

陶原歩道橋

瀬戸の橋全般

せとのはしぜんぱん


いくつもの川が街を流れ、人々の暮らしと共に川がある街瀬戸。そこにはやきものによる装飾が施された橋が架けられています。やきものの街ならではのその風情に道行く人の心も和みます。公園橋、宮前橋、宮脇橋、吉田橋、今村橋……。さまざまな技法を使い、それぞれに意匠を凝らした欄干は、二つとして同じものはなく、時を重ねるごとに落ち着いた風合いを増していきます。川の向こうとこちらをつなぐだけでなく、人と人、人とやきものを結ぶ架け橋として整備した。

神明橋

しんめいばし


大正14年(1925)8月、瀬戸地方を襲った未曾有の集中豪雨で、瀬戸川にかかる木橋はことごとく流されてしまった。それ以後、主要な橋のコンクリート橋化が進められ、神明橋も昭和2年(1927)にできた。
現在は橋も拡幅され、昭和61年(1986)4月には、1000年余の長い歴史と輝かしい伝統に培われたやきもののまち「瀬戸」にふさわしい景観の整備、シンボル作りのため「やきものを使った街づくり事業」の一つとして、欄干改築工事が竣工した。瀬戸クラフト協会のデザインで瀬戸の「陶土山」をイメージしたもので、稜線にあたる部分は染め付けのモザイクタイルで表現し、陶土の部分は量感のある陶器で表現されている。また、親柱と小柱は御影石のたたき仕上げとなっている。

神明橋

新京橋

しんきょうばし


瀬戸川の十三橋と吉田橋の間に架かる橋で、平成5年(1993)11月1日に完成している。
親柱は御影石を台座にし、その前面を凹曲線にして柔らかさを表現するとともに、ワインレッドの磁器板を貼り、支柱にも同様の磁器板を取り付けている。

十三橋

じゅうさんばし


大正14年(1925)8月、瀬戸地方を襲った未曾有の集中豪雨で、瀬戸川にかかる木橋はことごとく流されてしまった。それ以後、主要な橋のコンクリート橋化が進められた。十三橋もこの大洪水で流れたため、架け替えられた。この橋は上流から順に刎田橋、藤四郎橋、公園橋、東橋、中橋、宮脇橋、神明橋、宮前橋、蔵所橋、窯神橋、南橋、瀬戸橋の次、十三本目の橋ということで「十三橋」と命名されたと云われているが定かではない(記念橋、山脇橋は十三橋より後で架けられた)。
その後、昭和27年(1952)12月に改築され、その後平成9年(1997)から3か年の継続事業で架け替え工事が行われ、平成12年(2000)3月21日に完成した。高欄はやきものではなくステンレス製で、デザインは住民参加によるワークショップで決定した。

十三橋

公園橋

こうえんばし


大正14年(1925)8月、瀬戸地方を襲った未曾有の集中豪雨で、瀬戸川にかかる木橋はことごとく流されてしまった。それ以後、主要な橋のコンクリート橋化が進められ、公園橋も昭和2年(1927)にできた。その昔、この橋はお猿橋と呼ばれていた。
「やきものを使った街づくり事業」の一つとして整備されたもので、平成6年(1994)8月30日に13番目の橋として完成をみた。鳥のノベルティを貼り付けた透かしの磁器板を高欄にはめ込んでいる。歩道も、地場産品である煉瓦タイルが舗装されている。

蔵所橋

くらしょばし


「蔵所」という地名は江戸時代、尾張藩がやきものの生産販売を統制し藩の財源を確保するため、この地に御蔵会所という役所を置いたことに由来している。明治以降も、官庁などがここに集中し当時としては立派な木橋が架けられていた。大正末期の大水害のあと、コンクリート橋が架設され、戦後再築されて平成の時代に至っていた。
中心市街地の活性化を目的とした「瀬戸川文化プロムナード」計画のなかで、瀬戸川(瀬戸大橋~記念橋)・瀬戸川プロムナード線の整備とともに橋梁が検討され、蔵所橋と南橋は道路橋としての役割を終えることになり、平成21年(2009)11月初旬取り壊され、長い歴史を見つめてきた橋が姿を消した。

共栄橋

きょうえいばし


大正14年(1925)の大水害で、県道名古屋瀬戸線の瀬戸駅付近と今村付近の瀬戸川南岸堤防がくずれ、この災害によって新しい道路の建設運動が今村でおこり、耕地整理で計画されたのが八間道路で、昭和のはじめには、まず現在の市役所前付近から共栄橋までの間が完成した。昭和14年(1939)頃から隣りの旭町で、県道名古屋・瀬戸線の改修のための土地買収がはじまり、昭和12年(1937)末には共栄橋が改築され、昭和18年(1943)末に名古屋・瀬戸線の路線変更が行われ、共栄橋~八間道路が県道となった。
昭和12年(1937)に架橋されたもので老朽化により、平成7年(1995)10月から工事がはじまり平成9年(1997)9月17日に完成をみた。

新共栄橋(新大橋・丸山橋)