旧山口村絵図には、枝郷である海上集落の南東側の山上に「山田佐右衛門物見ヶ岩」の記載がある。古城跡とはっきり書かれているわけではないが、江戸時代後期の地誌「尾張徇行記」には、甲斐の武田信玄が進出して築いた砦とする地元での言い伝えが書かれている。今も西側に開けた標高327mの物見山の山頂からは、山口地区をはじめ、幡山の平地部が眼下に広がり、地区の様子が一望できる。
投稿者: setopedia
三国山
みくにやま
瀬戸市東方に位置し、かつての尾張、美濃、三河の3つの国を分ける本地域の最高峰(標高701m)である。猿投山北断層に面する南斜面はやや急峻であるが、北斜面は緩やかで、稜線は丸味をおび、小谷が深く入り込むという花崗岩山特有の地形を呈しており、本山も著しく風化作用が進んでいる。山頂には名古屋統制無線中継所や展望台があり、遠く御岳山や伊勢湾を望むことができる。
東国山
とうごくさん
瀬戸市と名古屋市守山区上志段味との境にあって、標高は198mである。山頂には尾張戸神社が鎮座することから、この山を尾張山と称されていたが、いずれの頃からか當國山と呼び替え、後世に東谷山と称呼するようになったとされる。
東谷山の西の斜面には多くの古墳がある。社殿そのものも古墳の上に建っていて、古墳を主体として発生した神社の好例といわれている。
東谷山への道は、かつては南の麓から東谷山へ登っていった。今は自動車で山頂まで登ることができるが、歩いて東谷山を目指した道のりはかなりきついものであったに違いない。
猿投山
さなげやま
「千古に清き猿投山…」と瀬戸市歌に歌われる猿投山は、瀬戸市と豊田市の市境に位置する。猿投山塊は、恵那山地の隆起帯の南西延長部にあり、北側を猿投山北断層、南側を猿投-境川断層によって切られ、周りより高まった地塁山地である。「猿投型花崗岩」の名で示されるように、全山が花崗岩から成っている。新鮮な岩肌が見られる所は少なく、著しく風化作用が進んでおり、白い山肌がここかしこに見られる。山間にはいくつもの小さな清流がながれ、本市側の山麓にはアカマツを主体とした雑木林、山腹にはヒノキの造林地があり、市境を越えた山頂付近の西の宮、東の宮あたりは樹齢100年を越える大きなスギがうっそうと茂っている。また、豊田市側の山腹には、国の天然記念物に指定されている珍しい菊石(球状花崗岩)が見られる。
応夢山
おうむさん
定光寺の名で知られる応夢山は、中・古生層から成り、標高が271mで高山の部類に入るものではない。しかし、市境(県境)を流れる庄内川(玉野川)の峡谷より一気にせり上っており、実際以上の高さを感じさせる勾配である。庄内川に架かる城嶺橋付近では、新鮮な中・古生層の砂岩と頁岩の互層や砂岩とチャートの互層が見られるのに対して、本山では風化作用が進み土壌化して多くの照葉樹を育てている。「定光寺縁起」によると、当山の開山は肥後の人千葉氏で、その母一夜地蔵菩薩の霊夢を感じて生れたと言われ、九才で出家して鎌倉建長寺で修行の後、五十四才の時尾張の国を遊歴して、水野の里人跡未踏の地を卜して座禅をしておられた。遠近の人々それを伝え聞き、教を請い帰依する者多く、5年の後、本堂を建立することとなり、その位置が決定したとき、ある夜不思議にも、そこから定光仏と言う霊像を掘出した夢を雲水一同が見たので、禅師は定光寺と名づけ、山号を応夢山としたとある。定光寺(覚源禅師開創)には、尾張藩祖徳川義直公の廟所がある。
山口川
やまぐちがわ
江戸時代には、矢田川が山口川とも呼ばれていたが、現在では矢田川の上流の一部である。最上流部は猿投山西斜面から注ぐいくつかの細流を合わせて水量を増した「赤津川」との合流点であり、下流域は、本地大橋の下流約500mで瀬戸川が右から合流し、右岸が尾張旭市となる矢田川との合流点である。山口川の名称の由来は村落名である山口村から出ていると思われる。瀬戸市南部を東西に広がる山口川流域は、旧幕時代は東から山口村・菱野村・本地村に分かれて愛知郡に属していたが、1906年(明治39年)の合併で幡山村となり、昭和も戦後になって瀬戸市に合併された。山口川が左岸から流入する海上川を合わせて平地に出てくる屋戸橋の上から上流を眺めると、川の流れが山間から平地に出る様子がつぶさに観察されて、「山口」という地名がつけられた理由がよくわかる。
矢田川(山口川)
やだがわ(やまぐちがわ)
一級河川。矢田川は名古屋市で庄内川へ流入するものの支流で、幹線流路の延長は、23.7kmあり、そのうち上流6.15kmが市内を流れている。山口川は旧山口村の名をとった川の呼び方であり、現在でも地元では、瀬戸川との合流点までの呼び方に用いられている。
山口堰堤の下で赤津川が海上川と合流し、ここから下流が矢田川になる。屋戸橋をくぐった所で屋戸川が合流して水田地帯に入り、大きく湾曲して西へ流れている。しかし、古地図を見ると、昔はこの川の川筋も蛇行が激しくて、大水による氾濫が多く、河川の両側には耕作できない砂入地があったようである。
水無瀬川
みなせがわ
2級河川。上流域左岸:原山町141先、右岸:原山町140-2先。河川延長:2,550m、下流域県道瀬戸・大府線にかかる菱野大橋下流山口川との合流点。菱野団地が作られたことにより、水無瀬川上流域の地表部分がなくなってしまった。
下流の矢田川と合流する手前のところにシラハエがたくさん住んでいる。釣るほど大きな魚ではないので、タモですくって、子供達が遊んでいる。
水野川
みずのがわ
一級河川。水野川は東部の上品野町より西部の鹿乗町まで、北部に分布する基盤岩類に接するようにして流れており、その全長は12.37 kmで市内を流れる河川中最長である。水源は東部山地の片草川・白岩川・鳥原川、北部山地の山崎川・余床川・山干川など数多くの谷からもたらされている。白岩町北側の山中に発した品野川には、流域面積の広い片草川・白岩川が注いでいるため水量も比較的多く、市の水道用水としても用いられており、透明度も高い。上品野町に入った所で河床勾配が緩やかになるので、流速を減じて中品野町へ流れて、岩屋堂より流れてきた鳥原川に合流する。品野地区を潤した水は水野地区へ流れていく。その間岩石が硬いため川筋は曲がりくねり、なかには水の侵食作用だけでなく、地殻運動と関係があると思われる所もある。穴水橋をくぐると水野地区に入り、流れは緩やかになる。そして目鼻石で中・古生層の硬い岩盤を削って落差30mを一気に下り、流勢を増して庄内川に合流する。