菱野断層

ひしのだんそう


瀬戸地域には、笠原断層、暁断層、菱野断層及び猿投山北断層からなる主要な断層がある。
菱野断層は東南東-西北西方向であり、東南東方向の延長は花崗岩類の中へ入り不明である。本断層の南側には基盤の花商岩が露出し、やはり南側の地塊が隆起している。

猿投山北断層

さなげやまきただんそう


瀬戸地域には、笠原断層、暁断層、菱野断層及び猿投山北断層からなる主要な断層がある。
猿投山北断層は北東-南西方向を示し、花崗岩類の中を通っている。本断層は、花崗岩類に幅約1mの明瞭な破砕帯として確認でき、深い断層谷として追跡できる。瀬戸市域では断層の南東側の地塊が地形的に高く、北西側地塊に分布する水野砂礫相などは、南東側に分布しないことから、南東側地塊の隆起と考えられる。
瀬戸地域は、東南東-西北西方向の断層運動と猿投山を中心とする地域の隆起によって地質構造が発達した。断層運動は、品野層堆積後から現在まで継続して活動していたと推定され、花崗岩類が侵食されてできた堆積盆地内に品野層が堆積し、断層運動を受けて部分的に侵食され、地形は平坦化された。品野層の上に花商岩の風化物が瀬戸陶上層として堆積し、断層運動を受けわずかに侵食作用を受け、その上に矢田川累層が堆積し、再び断層運動を受けたと考えられる。

笠原断層

かさわらだんそう


 瀬戸地域には、笠原断層、暁断層、菱野断層及び猿投山北断層からなる主要な断層がある。
笠原断層は、東南東-西北西方向の明瞭な断層崖を示し、地形によって追跡できる。また、この断層は定光寺町付近で分岐し、北側を笠原北断層、南側を笠原南断層とした場合、笠原南断層は東南束の延長部で明瞭な断層崖(地域外)を示す。両断層とも南側が上昇している。

暁断層

あかつきだんそう


 瀬戸地域には、笠原断層、暁断層、菱野断層及び猿投山北断層からなる主要な断層がある。
暁断層は旧開発鉱山内を通り、東南東-西北西方向である。東南東方向の延長は不明であるが、片草川沿いに花崗岩が侵食され破砕状であり、片草川の北側に品野層が分布し、南側に分布しないことなどから断層が推定される。

物見山(七城ヶ嶺)

ものみやま


旧山口村絵図には、枝郷である海上集落の南東側の山上に「山田佐右衛門物見ヶ岩」の記載がある。古城跡とはっきり書かれているわけではないが、江戸時代後期の地誌「尾張徇行記」には、甲斐の武田信玄が進出して築いた砦とする地元での言い伝えが書かれている。今も西側に開けた標高327mの物見山の山頂からは、山口地区をはじめ、幡山の平地部が眼下に広がり、地区の様子が一望できる。

物見山から眺める幡山地区・尾張平野

三国山

みくにやま


瀬戸市東方に位置し、かつての尾張、美濃、三河の3つの国を分ける本地域の最高峰(標高701m)である。猿投山北断層に面する南斜面はやや急峻であるが、北斜面は緩やかで、稜線は丸味をおび、小谷が深く入り込むという花崗岩山特有の地形を呈しており、本山も著しく風化作用が進んでいる。山頂には名古屋統制無線中継所や展望台があり、遠く御岳山や伊勢湾を望むことができる。

東国山

とうごくさん


瀬戸市と名古屋市守山区上志段味との境にあって、標高は198mである。山頂には尾張戸神社が鎮座することから、この山を尾張山と称されていたが、いずれの頃からか當國山と呼び替え、後世に東谷山と称呼するようになったとされる。
東谷山の西の斜面には多くの古墳がある。社殿そのものも古墳の上に建っていて、古墳を主体として発生した神社の好例といわれている。
東谷山への道は、かつては南の麓から東谷山へ登っていった。今は自動車で山頂まで登ることができるが、歩いて東谷山を目指した道のりはかなりきついものであったに違いない。

東国山

猿投山

さなげやま


「千古に清き猿投山…」と瀬戸市歌に歌われる猿投山は、瀬戸市と豊田市の市境に位置する。猿投山塊は、恵那山地の隆起帯の南西延長部にあり、北側を猿投山北断層、南側を猿投-境川断層によって切られ、周りより高まった地塁山地である。「猿投型花崗岩」の名で示されるように、全山が花崗岩から成っている。新鮮な岩肌が見られる所は少なく、著しく風化作用が進んでおり、白い山肌がここかしこに見られる。山間にはいくつもの小さな清流がながれ、本市側の山麓にはアカマツを主体とした雑木林、山腹にはヒノキの造林地があり、市境を越えた山頂付近の西の宮、東の宮あたりは樹齢100年を越える大きなスギがうっそうと茂っている。また、豊田市側の山腹には、国の天然記念物に指定されている珍しい菊石(球状花崗岩)が見られる。

猿投山
猿投山

応夢山

おうむさん


定光寺の名で知られる応夢山は、中・古生層から成り、標高が271mで高山の部類に入るものではない。しかし、市境(県境)を流れる庄内川(玉野川)の峡谷より一気にせり上っており、実際以上の高さを感じさせる勾配である。庄内川に架かる城嶺橋付近では、新鮮な中・古生層の砂岩と頁岩の互層や砂岩とチャートの互層が見られるのに対して、本山では風化作用が進み土壌化して多くの照葉樹を育てている。「定光寺縁起」によると、当山の開山は肥後の人千葉氏で、その母一夜地蔵菩薩の霊夢を感じて生れたと言われ、九才で出家して鎌倉建長寺で修行の後、五十四才の時尾張の国を遊歴して、水野の里人跡未踏の地を卜して座禅をしておられた。遠近の人々それを伝え聞き、教を請い帰依する者多く、5年の後、本堂を建立することとなり、その位置が決定したとき、ある夜不思議にも、そこから定光仏と言う霊像を掘出した夢を雲水一同が見たので、禅師は定光寺と名づけ、山号を応夢山としたとある。定光寺(覚源禅師開創)には、尾張藩祖徳川義直公の廟所がある。

応夢山

山口川

やまぐちがわ


江戸時代には、矢田川が山口川とも呼ばれていたが、現在では矢田川の上流の一部である。最上流部は猿投山西斜面から注ぐいくつかの細流を合わせて水量を増した「赤津川」との合流点であり、下流域は、本地大橋の下流約500mで瀬戸川が右から合流し、右岸が尾張旭市となる矢田川との合流点である。山口川の名称の由来は村落名である山口村から出ていると思われる。瀬戸市南部を東西に広がる山口川流域は、旧幕時代は東から山口村・菱野村・本地村に分かれて愛知郡に属していたが、1906年(明治39年)の合併で幡山村となり、昭和も戦後になって瀬戸市に合併された。山口川が左岸から流入する海上川を合わせて平地に出てくる屋戸橋の上から上流を眺めると、川の流れが山間から平地に出る様子がつぶさに観察されて、「山口」という地名がつけられた理由がよくわかる。

山口川