滝本 知二

たきもと ともじ


明治33年(1900)~昭和51年(1976)7月22日
岡山県真庭郡久世町に生まれる。早稲田大学を卒業後、若くして久世町長代行を務め、昭和2年(1927)には岡山県議会議員に当選した。昭和8年(1933)、大阪に出て政治評論誌「筆陣」を創刊し論筆活動につく。昭和10年(1935)に名古屋に転居したが、太平洋戦争の戦火で被災し、瀬戸に移り住んだ。
瀬戸の陶祖藤四郎について、「大瀬戸」新聞にその研究成果を14年間400回にわたり発表を続けた。昭和32年(1957)から瀬戸市史編纂委員として活動、『陶磁史篇三』を昭和42年(1967)に執筆刊行している。また、陶芸家の自作瓶子が国の重要文化財に指定されたことについて、昭和34年(1959)文化財保護委員会に対し「重要文化財指定取消し要望書」を提出し、度重ねて国側に対応をせまった。ついに、昭和36年(1961)指定解除に至ったことは「永仁の壷」事件として広く知られる。

小山 冨士夫

こやま ふじお


明治33年(1900)3月24日~昭和50年(1975)10月7日
岡山県玉島郡上成村(現倉敷市)に生まれる。大正9年(1920)東京商科大学(現一橋大学)に入学、その後退学し社会主義思想に興味を持ち、カムチャッカで蟹工船に1年近く乗ったりもした。大正14年(1925)、瀬戸の陶芸家矢野陶々に弟子入りし人一倍働き技術を習得、小長曽窯跡をみたことが古窯発掘へ引き込む発端となる。昭和7年(1932)、東洋陶磁研究所研究員となり、研究誌『陶磁』の編集に携わるうちに学者への道を進むようになる。昭和21年(1946)日本陶磁協会が発足し理事に就任、昭和25年(1950)文化財保護委員会が発足し、同事務局美術工芸課、無形文化課に勤務し工芸の調査、文化財指定に携わった。昭和36年(1961)「永仁の壷」の重要文化財指定解除問題により、文化財保護委員を辞職。この事件で一切の公職から身を引いた。昭和39年(1964)から鎌倉の自宅で作陶を再開し、昭和47年(1972)には岐阜県土岐市に花の木窯を築窯した。昭和48年(1973)東洋陶磁学会が発足し、常任委員長に就任した。官職を退いた後も、著述や作陶で多忙を極めた。
日本を代表するやきもの産地の瀬戸・常滑・信楽・丹波・越前・備前の六産地を「六古窯」の名称を提唱したのは小山冨士夫である。

黒田 政憲

くろだ まさのり


福岡県朝倉郡秋月町に生まれる。明治24年(1891)(明治20年(1887)?)、東京工業学校瑠璃破璃科(現東京工業大学)を卒業。明治33年(1897)兵庫県津名郡陶器学校長となり、次いで明治33年(1900)愛知県瀬戸陶器学校長、明治42年(1909)中国四川省成都中等工業学校に招かれた。明治44年(1911)佐賀県立有田工業学校長となり、大正3年(1914)佐賀県技師を兼ねた。
東京工業学校時代にワグネル博士に石炭窯の焼き方の指導を受けたことを基に、瀬戸陶器学校内に石炭試験窯を作らせ、明治35年(1902)瀬戸地方で初めての石炭窯に火が入れられた。黒い石炭で白いやきものを焼く試みは無茶だと言われながら、瀬戸で最初に石炭窯を導入して実験を重ねたことは高く評価される。黒田の業績は後世にも残り、『愛知に輝く人々』の愛知県小中学校編の中で、あるいは瀬戸市内の小学校の社会科副読本にも紹介されている。
クロース・コーレマン『定量分析書』、ランゲニペック『陶器製造科学』等の訳書、瀬戸陶器学校長当時の執筆にかかる『実用製陶学』『瀬戸の陶業』などの好著があり、和文窯業書の普及に関しても多大の貢献をなした。

加藤 庄三

かとう しょうぞう


明治34年(1901)5月~昭和54年(1979)5月
瀬戸市西谷町に生まれ、瀬戸尋常高等小学校を卒業。大正5年(1916)父喜太郎の死去のため、家業の窯業原料商を継ぐ。昭和7年(1932)珪酸曹達の生産を開始、昭和40年(1965)愛知珪曹工業(株)会長に就任する。
瀬戸市史準備委員会の委員に委嘱されるが、委員会は難航したため委員を辞退する。それでも、磁祖民吉については「瀬戸生まれでないと」との責任感から、長い年月と私財を投じて、民吉の足跡を追って九州まで何度も赴き調査を進めた。庄三が永年にわたって調査の累積は自身の手によりまとめられていたため、『民吉街道』として遺族の手によって刊行された。
庄三は瀬戸を中心に遺された古文書や遺跡などの文化財を調べ上げ、こと細かに筆記で写し取っているが、その記録は膨大にのぼり二次資料とは言え貴重な資料となっている。

安藤政二郎

あんどうせいじろう


明治30年(1987)10月12日~平成6年(1994)10月12日
東加茂郡旭町に生まれる。大正7年に愛知県巡査を拝命し、新栄署、江川署、犬山署等に勤務した。その後、惜しげもなく巡査を辞める。昭和6年(1931)、「大瀬戸」を日刊紙として発行した。昭和8(1933)年には『陶都人士録』、そして昭和16年(1941)に『瀬戸ところどころ今昔物語』を発刊した。翌々年、強力な新聞統制により、「大瀬戸」は廃刊されたが、昭和27年(1952)に複刊「大瀬戸」の第一号を発刊した。昭和28年(1953)には瀬戸市史編纂準備委員として委嘱され、その後編纂委員として活躍した。昭和31年(1956)には『改定瀬戸ところどころ今昔物語』(安藤政二郎著、滝本知二改訂)を発刊した。

ワグネル

わぐねる


ゴット・フリート・ワグネルは1831年7月5日ドイツのハノーバーに生まれ、ゲッチンゲン大学を出た。明治元年(1868)、石鹸製造所設立のため長崎へ来た。明治3年(1870)佐賀藩から招かれて、有田で石炭窯の焼成法や天然呉須に代わる酸化コバルトなど各種釉薬の使用法を指導した。その後、東京大学の前身、開成所の教師となる。また、明治6年(1873)のウィーン万国博には政府の顧問として大きな足跡を残した。陶磁器の焼成に当って使われるゼーゲル式温度計も彼がドイツからもたらしたものである。瀬戸で石炭窯を築いたのは明治34年(1901)瀬戸陶器学校で、当時の校長はワグネルの指導を受けた黒田政憲であった。この石炭窯の導入により、また、陶器原料貯蓄場といわれる製土工場が大量の均一製土を供給することで、瀬戸の窯業生産力は大いに進歩した。
ワグネルは、日本陶業の父といわれ、日本の窯業界に大きな影響を与えた。ワグネルの教えを受けたものには、日本窯業界の大物が大勢いる。明治25年(1892)11月8日永眠、墓は青山墓地にある。

ホフマン

ほふまん


1875~1945。イタリアのトリエステ生まれ。明治37年(1904)に東京帝国大学に招かれ来日する。明治42年(1909)に帰国。その後はウイーン農科大学教授などを経て、イタリア森林省林野局の総局長となる。
かつて、尾張地方の山や丘にははげ山が広がっていた。このはげ山を復旧するため、愛知県は明治38年(1905)に東京帝国大学農科大学に設計を依頼し、その時提出されたのが、同大学雇教師アメリゴ・ホフマンが林学科学生の山崎嘉夫・弘世孝蔵の卒業論文として指導した設計書であった。愛知県は同年、弘世が設計した第2号支渓(現在の瀬戸市東印所町)について工事を行い、模範砂防工として完成させました。の工事は、ホフマンが設計を指導したためホフマン工事と呼ばれています。ホフマン工事は、山腹面への植栽は行わず、土砂の浸食や崩壊をある程度まで自然に放置し、渓流を安定した勾配に導き、渓流と山裾を固める工法で、当時オーストリア・フランスで広く用いられていた。
当時のはげ山復旧工法は、山腹面に階段を切り付け苗木を植栽する工法が広く行われていたため、ホフマン工事は定着しなかった。しかし、設計にあたって、縦断面図を作成して渓流の安定を考え、土堰堤の安定や放水路・水叩きなどの各部の大きさを計算によって求めるなど、近代科学に基礎をおく設計思想が取り入れられた。その後の治山技術の発展に大きな影響を与えた。

渡辺 幸平

わたなべ こうへい


四国讃岐高松士族で、琴々堂と号した。近世の瀬戸窯に陶彫の技法を伝えた大恩人である。高松藩の近習役在勤のとき君側の婦人に恋慕し、それが因となって国元を出奔し、京都に出で一時は銅器鋳型の製作に従事していた。その後京都清水焼の井上松兵衛方に身を寄せたこともある。松兵衛の紹介で瀬戸村加藤三平を訪ね、そこで旅装を解いた。明治5年(1872)2月12日没した。
幸平は、瀬戸では彫塑を以って、陶祖春慶翁の碑「六角陶碑」の獅子、その他多くの成績を遺している。最も仙佛・動物に長じている。幸平は、「白磁は釉に被われてその妙味は埋没してしまうので、有色の無釉粘土を喜び、瀬戸の砂防工事の堰の上に溜った、天然淘汰のタメという黄色の粘土を用い、その焼成には火焔に触れしめず、結果は褐色又は青灰色となって、高尚優雅である」としている。
渡辺幸平の墓石は、明治5年(1872)から年移って碑棹は倒れ台石は散逸していた。宝泉寺裏の無縁仏となって放置されている陶彫の大恩人渡辺幸平の基碑を復元しようと、大瀬戸の安藤が発起して、墓の碑はそのまま用い、台座には墓碑復元の記、これに各方面の協力を得て陶祖、磁祖の墓地の隣にノベリティ関係業者の浄財を得て建設。昭和35年(1960)再建法要供養を宝泉寺住職の手によって盛大に行った。

麦袋

ばくたい


文久元年(1861)~昭和18年(1943)
本名、加藤友太郎。号、麦袋。明治期~昭和の戦前までを代表する瀬戸陶家の一つで古瀬戸写、黄瀬戸、瀬戸黒、織部写など、主に茶碗・茶入などの茶陶に優れた。人との接しを避け無口で変わり者として通す。門下には水野古麦などをはじめ、すぐれた瀬戸の名工を輩出している。

水野 権平

みずの ごんぺい


 水野氏は古代より在地支配を行う土豪で、江戸時代になってからも尾張藩に召抱えられた。水野氏は大坂の陣後、在地事情の明るさと特殊な技能である「御狩御用」をもって初代藩主義直に召しだされる。水野太左衛門致番、水野久之丞正勝、水野勘太夫正照は「水野御案内之者」をつとめる。この間に御林への関与が主体となり、そして御林奉行設置にあたってその延長として役割に携わっていく。 初代御林奉行に水野権平正秀(享保元・4・28~同16・7・9)、水野権平正興(元文4・7・23~安永4・8・13)、水野権平正恭(安永4・10・5~文化7・2・14)、水野権平正摸(寛政2・2・29~文化10・4)、水野権平正矩(文化7・2・14~天保15・4・29)、水野権平正盛(天保15・6・24~文久3・12・12)、水野権平正保(元治元・2・5~明治元・12・16)と続き、正恭・正摸は水野代官も兼ねた。また、正保は明治元年12月16日から同4年10月5日まで東方総監参謀助役をつとめた。
⇒御林方役所、水野代官所参照