本多 静雄

ほんだ しずお


明治31年(1898)1月5日~平成11年(1999)5月6日
西加茂郡上郷村花本(後の猿投村、現豊田市花本町)に生まれる。第八高等学校(現名古屋大学)を経て、大正13年(1924)京都帝国大学工学部電気工学科を卒業。逓信省に入省し、数々の要職を歴任した後、昭和18年(1943)内閣技術院第一部長を最後に退官し、同年故郷に帰る。昭和21年(1946)西加茂郡猿投村越戸(現豊田市平戸橋町)に転居。昭和25年(1950)日本技術㈱、同29年(1954)日本電話施設㈱、昭和44年(1969)には、愛知音楽FM(現㈱エフエム愛知)・中部通信サービス㈱(現㈱NTTドコモ東海) をそれぞれ設立し社長に就任する。このように、本多は電気通信の技術者として通信事業に生涯関与するとともに、戦前は技術官僚として、戦後には企業経営者としての事業家であった。
昭和18年に内閣技術院を退官し郷里に帰るが、そこで加藤唐九郎と知り合い親交を持ち、次第に陶磁器の世界に魅せられていった。昭和20年(1945)民芸運動の主導者柳宗悦を知り、「民芸運動」の理解者となった。翌年には日本陶磁協会による小長曽窯跡の発掘調査に参加して、古陶磁に対する興味を深めていった。昭和29年(1954)西加茂郡三好町黒笹で平安時代の古窯址群を発見し、多くの陶片資料を採取した。これが猿投山西南麓古窯址群の解明の発端となった。こうした活動と並行して民俗・民芸資料へと展開していき、本多の関心・関与は茶の湯、古陶磁、民芸、骨董から狂言に至るまで幅広い分野に及んだ。「本多コレクション」と呼ばれる膨大な資料は、学術資料として高い評価を得ている。
陶磁器に関する総合的な研究施設の必要性を痛感した本多は、川崎音三(当時丸栄社長)らとともに愛知県陶磁資料館(現陶磁美術館)、豊田市民芸館の建設に尽力した。

楢崎 彰一 

ならさき しょういち


大正14年(1925)6月27日~平成22年(2010)1月10日
大阪府大阪市に生まれた。昭和24年(1949)3月に京都大学文学部史学科(考古学)を卒業、翌年4月から名古屋大学文学部史学科考古学研究室の開設に伴い助手として勤務、講師、助教授を経て、昭和53年(1978)教授となり平成元年(1989)年3月に定年退官した。退官後、平成元年に愛知県陶磁資料館参与(5年)、平成4年(1992)に財団法人瀬戸市埋蔵文化財センター所長(13年)、平成7年には愛知県陶磁資料館総長(4年)等を歴任した。
大学時代は古墳時代の研究を行い、名古屋大学着任後も東海地方の古墳についての発掘調査を進めた。研究の一大転機となったのは、愛知用水建設工事に伴う昭和30年(1955)~36年(1961)にかけて実施された猿投山西南麓古窯跡群の発掘調査に中心として携わり、古墳時代から平安時代の陶器生産の実態を解明したことによる。それまで日本陶磁史において空白の時代とされてきた平安時代にも須恵器生産が継続され、灰釉陶器・緑釉陶器を新たに生産した猿投窯が日本の中心的な窯業地であり、中世の瀬戸窯や常滑窯へ展開する母胎であったことを初めて明らかにした。この猿投窯の研究を出発点として、愛知・岐阜県下を主なフィールドとして、以降考古学的な窯跡の発掘調査の成果を用いて、古墳時代の須恵器から桃山・江戸時代の陶器に至る編年研究に邁進し、古墳時代から平安時代における猿投窯の須恵器・灰釉陶器、中世の瀬戸窯、近世の瀬戸窯・美濃窯の編年を確立するとともに、古窯跡の構造とその変遷も解明した。この間数多くの陶磁史研究者を育成する一方、日本各地の古窯の発掘調査にも携わり陶磁史研究に大きな影響を与えた。胆管癌のため名古屋市中区の病院で他界、84歳であった。
『陶器全集31 猿投窯』(平凡社)、『陶磁大系5 三彩・緑釉・灰釉』(平凡社)、『日本の陶磁 古代・中世篇Ⅰ 土師器・須恵器・三彩・緑釉・灰釉』(中央公論社)、『原色愛蔵版日本の陶磁 古代・中世篇2 三彩・緑釉・灰釉』(中央公論社)、『日本陶磁全集6 白瓷』(中央公論社)、『世界陶磁全集2 日本古代』(小学館・共著)などの出版物が刊行されている。

戸田 紋平

とだ もんぺい


明治36年(1903)1月6日~昭和40年(1965)11月20日
東春日井郡品野町(現瀬戸市)に生まれる。愛知県立陶器学校(現愛知県立瀬戸窯業高等学校)、東洋大学専門学部東洋文学科を卒業し、大正15年(1926)安城高等学校に国語教師として就職する。昭和9年(1934)頃より、やきものに興味を覚え収集を始める。昭和23年(1948)、母校の瀬戸窯業高等学校に転任。同校60周年で記念館に陳列室ができ、当時の赤塚幹也校長が大量の研究用の陶片を寄贈、陶磁史クラブは顧問紋平の指導で整理・分類・復元作業を行い、古窯調査の基礎を作る。昭和24年(1949)、瀬戸陶磁器研究会を組織し、瀬戸染付回顧展、徳川期陶芸回顧展を開催する。昭和30年(1955)、日本陶磁協会瀬戸支部主催の古陶磁展で活躍、この頃より『陶説』、地方紙等に研究成果の記事を投稿した。本多静雄・加藤唐九郎・楢崎彰一・谷口順三らと親交があり、瀬戸の陶業界に古陶器の研究・発掘で大きな影響を与えた。昭和40年(1965)、62歳で脳出血により急逝。翌年、本多静雄の発起により、楢崎彰一・若杉敬らが中心となり遺稿集『瀬戸のやきもの』が風媒社から刊行された。

戸田 修二

とだ しゅうじ


下品野生まれで、品野信用組合長の戸田兼助の二男。郷土史は飯より好きな男といわれた。末広町(末広商店街)に住み、鍼灸・マッサージとミシン販売をしていたが、郷土史のこととなると飛び歩くことが多かった。古陶磁や刀剣の鑑定ができ、詩吟も上手で師範の免許状を持っていた。昭和28年(1953)瀬戸市史編纂事業準備委員会に、昭和33年(1958)には瀬戸市史編纂委員に委嘱される。
文献・資料等を調査、蒐集し「瀬戸古城史談」を発表、その成果は『日本城郭全集 東海編』に掲載される。

滝本 知二

たきもと ともじ


明治33年(1900)~昭和51年(1976)7月22日
岡山県真庭郡久世町に生まれる。早稲田大学を卒業後、若くして久世町長代行を務め、昭和2年(1927)には岡山県議会議員に当選した。昭和8年(1933)、大阪に出て政治評論誌「筆陣」を創刊し論筆活動につく。昭和10年(1935)に名古屋に転居したが、太平洋戦争の戦火で被災し、瀬戸に移り住んだ。
瀬戸の陶祖藤四郎について、「大瀬戸」新聞にその研究成果を14年間400回にわたり発表を続けた。昭和32年(1957)から瀬戸市史編纂委員として活動、『陶磁史篇三』を昭和42年(1967)に執筆刊行している。また、陶芸家の自作瓶子が国の重要文化財に指定されたことについて、昭和34年(1959)文化財保護委員会に対し「重要文化財指定取消し要望書」を提出し、度重ねて国側に対応をせまった。ついに、昭和36年(1961)指定解除に至ったことは「永仁の壷」事件として広く知られる。

小山 冨士夫

こやま ふじお


明治33年(1900)3月24日~昭和50年(1975)10月7日
岡山県玉島郡上成村(現倉敷市)に生まれる。大正9年(1920)東京商科大学(現一橋大学)に入学、その後退学し社会主義思想に興味を持ち、カムチャッカで蟹工船に1年近く乗ったりもした。大正14年(1925)、瀬戸の陶芸家矢野陶々に弟子入りし人一倍働き技術を習得、小長曽窯跡をみたことが古窯発掘へ引き込む発端となる。昭和7年(1932)、東洋陶磁研究所研究員となり、研究誌『陶磁』の編集に携わるうちに学者への道を進むようになる。昭和21年(1946)日本陶磁協会が発足し理事に就任、昭和25年(1950)文化財保護委員会が発足し、同事務局美術工芸課、無形文化課に勤務し工芸の調査、文化財指定に携わった。昭和36年(1961)「永仁の壷」の重要文化財指定解除問題により、文化財保護委員を辞職。この事件で一切の公職から身を引いた。昭和39年(1964)から鎌倉の自宅で作陶を再開し、昭和47年(1972)には岐阜県土岐市に花の木窯を築窯した。昭和48年(1973)東洋陶磁学会が発足し、常任委員長に就任した。官職を退いた後も、著述や作陶で多忙を極めた。
日本を代表するやきもの産地の瀬戸・常滑・信楽・丹波・越前・備前の六産地を「六古窯」の名称を提唱したのは小山冨士夫である。

黒田 政憲

くろだ まさのり


福岡県朝倉郡秋月町に生まれる。明治24年(1891)(明治20年(1887)?)、東京工業学校瑠璃破璃科(現東京工業大学)を卒業。明治33年(1897)兵庫県津名郡陶器学校長となり、次いで明治33年(1900)愛知県瀬戸陶器学校長、明治42年(1909)中国四川省成都中等工業学校に招かれた。明治44年(1911)佐賀県立有田工業学校長となり、大正3年(1914)佐賀県技師を兼ねた。
東京工業学校時代にワグネル博士に石炭窯の焼き方の指導を受けたことを基に、瀬戸陶器学校内に石炭試験窯を作らせ、明治35年(1902)瀬戸地方で初めての石炭窯に火が入れられた。黒い石炭で白いやきものを焼く試みは無茶だと言われながら、瀬戸で最初に石炭窯を導入して実験を重ねたことは高く評価される。黒田の業績は後世にも残り、『愛知に輝く人々』の愛知県小中学校編の中で、あるいは瀬戸市内の小学校の社会科副読本にも紹介されている。
クロース・コーレマン『定量分析書』、ランゲニペック『陶器製造科学』等の訳書、瀬戸陶器学校長当時の執筆にかかる『実用製陶学』『瀬戸の陶業』などの好著があり、和文窯業書の普及に関しても多大の貢献をなした。

加藤 庄三

かとう しょうぞう


明治34年(1901)5月~昭和54年(1979)5月
瀬戸市西谷町に生まれ、瀬戸尋常高等小学校を卒業。大正5年(1916)父喜太郎の死去のため、家業の窯業原料商を継ぐ。昭和7年(1932)珪酸曹達の生産を開始、昭和40年(1965)愛知珪曹工業(株)会長に就任する。
瀬戸市史準備委員会の委員に委嘱されるが、委員会は難航したため委員を辞退する。それでも、磁祖民吉については「瀬戸生まれでないと」との責任感から、長い年月と私財を投じて、民吉の足跡を追って九州まで何度も赴き調査を進めた。庄三が永年にわたって調査の累積は自身の手によりまとめられていたため、『民吉街道』として遺族の手によって刊行された。
庄三は瀬戸を中心に遺された古文書や遺跡などの文化財を調べ上げ、こと細かに筆記で写し取っているが、その記録は膨大にのぼり二次資料とは言え貴重な資料となっている。

安藤政二郎

あんどうせいじろう


明治30年(1987)10月12日~平成6年(1994)10月12日
東加茂郡旭町に生まれる。大正7年に愛知県巡査を拝命し、新栄署、江川署、犬山署等に勤務した。その後、惜しげもなく巡査を辞める。昭和6年(1931)、「大瀬戸」を日刊紙として発行した。昭和8(1933)年には『陶都人士録』、そして昭和16年(1941)に『瀬戸ところどころ今昔物語』を発刊した。翌々年、強力な新聞統制により、「大瀬戸」は廃刊されたが、昭和27年(1952)に複刊「大瀬戸」の第一号を発刊した。昭和28年(1953)には瀬戸市史編纂準備委員として委嘱され、その後編纂委員として活躍した。昭和31年(1956)には『改定瀬戸ところどころ今昔物語』(安藤政二郎著、滝本知二改訂)を発刊した。

ワグネル

わぐねる


ゴット・フリート・ワグネルは1831年7月5日ドイツのハノーバーに生まれ、ゲッチンゲン大学を出た。明治元年(1868)、石鹸製造所設立のため長崎へ来た。明治3年(1870)佐賀藩から招かれて、有田で石炭窯の焼成法や天然呉須に代わる酸化コバルトなど各種釉薬の使用法を指導した。その後、東京大学の前身、開成所の教師となる。また、明治6年(1873)のウィーン万国博には政府の顧問として大きな足跡を残した。陶磁器の焼成に当って使われるゼーゲル式温度計も彼がドイツからもたらしたものである。瀬戸で石炭窯を築いたのは明治34年(1901)瀬戸陶器学校で、当時の校長はワグネルの指導を受けた黒田政憲であった。この石炭窯の導入により、また、陶器原料貯蓄場といわれる製土工場が大量の均一製土を供給することで、瀬戸の窯業生産力は大いに進歩した。
ワグネルは、日本陶業の父といわれ、日本の窯業界に大きな影響を与えた。ワグネルの教えを受けたものには、日本窯業界の大物が大勢いる。明治25年(1892)11月8日永眠、墓は青山墓地にある。