余床町

よどこちょう


昭和39年10月1日、大字名を廃止し町名を設定。もとは上水野のいちぶ。古くは夜床・与床と称したようで、『尾張徇行記』には上水野村の項で「夜床ハ本郷ヨリ丑寅ノ方ニ当リ、一里十町程ヘダチ下品野村沓掛村ヨリノ山隅ニアリ、二区ニ分レ家ハ二十戸ホトアリ」とある。昭和56年曽野町の一部を編入。

吉野町

よしのちょう


昭和56年3月31日、大字名を廃止し町名を設定。もとは山口の一部。当地は、古くから吉田洞、吉田島と呼ばれた。
→広久手第30号窯跡・瀬戸市指定史跡
→吉野遺跡
→古墳・吉田・吉田奥古墳群
→古窯・広久手古窯跡群

ゆりの台

ゆりのだい


昭和49年4月1日、町名を設定。もとは小田妻町の一部。水野団地の一部で1~5丁目がある。
→水野団地

湯之根町

ゆのねちょう


昭和17年2月1日、大字名を廃止し町名を設定。もとは瀬戸の一部で、明治期の瀬戸村大字瀬戸字背戸側・池田・印所の一部。大昔のこと、深川神社の北少し西よりに高根山という大きな山があり、この麓に池があって冬になるとこの池から湯煙が立ち昇るような風景が見られたところから、湯之根(湯の元)と呼ばれるようになったと伝えられている。

山脇町

やまわきちょう


昭和17年2月1日、大字名を廃止し町名を設定。もとは瀬戸の一部で、明治期の瀬戸村大字瀬戸字一ノ坪の一部。瀬戸川両岸に大きな森があったことから、ここに架かる橋を森橋といった。三河街道の縁にあるこの森を山と呼び、この地を山脇と呼んだ。明治39年瀬戸電が引かれるとこの付近に商家が並び駅前という地名になったが、町名設定で再び山脇町に戻った。

山の田町

やまのたちょう


昭和45年4月15日、大字本地の一部を町名設定。もとは本地の一部。寛政5年の本地村村絵図にも「山ノ田」や雨池,(山ノ田池)が描かれており、「カリマタ,(雁又)」の沢に開田された水田の呼称であったようである。

やまて坂

やまてざか


平成?年?月?日、山手特定土地区画整理事業にあたり町名を設定。1~3丁目がある。
→山手特定土地区画整理事業

山手町

やまてちょう


昭和32年7月1日、大字名を廃止し町名を設定。もとは中水野の一部。一部が、同43年松原町、同59年西松山町となり、同年小田妻町1~2丁目の一部を編入。

山路町

やまじちょう


昭和18年8月9日、大字名を廃止し町名を設定。もとは赤津の一部。山路嶋は江戸期からの郷で、『尾張徇行記』にも「支邑山路ト云、是ハ本郷ヨリ二十町ホトヘタチ、三州猿投山境ニアリ、元ハ本田所ナリシカ、頽敗シテ再見取畠ヲヒラケリ、此山路ハ万治年中ニ再興スト也」と記し、弘化2年の記録では戸数4戸の集落であったとあり、江戸時代には赤津村の支村として山路があったとされる。山路町は、猿投山の西山麓に位置し、山口町から猿投山に登る険しい山道があるところから、山路と呼ばれるようになったといわれる。