1780年(安永9年)『瀬戸窯業家人数覚』つまり、窯屋調の記録に記されている制度である。当時、尾張藩主による窯業保護奨励といった政策によりついには、過剰生産となった。これにより別項の『一子相続制』が発令され、『永代ろくろ一挺』と定められた者は11人だった。つまり、11軒の窯屋には特例が認められその他は一代限りと定められた。しかし後にそれらの者にも既得権が認められ、世襲制となった。
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一子相続制
いっしそうぞくせい
一子相続制、1607年(慶長12年)家康の第九子、徳川義直が尾張藩主となると、“瀬戸もの”の復活に力を入れた。藩主が様々な保護奨励といった政策を打ち出した。しかし皮肉な事にも瀬戸は過剰生産に悩まされる事になってしまった。ついには現地瀬戸から生産の規制を尾張藩庁に願い出る事になり、その結果、発令されたものが「一子相続の制度である。これにより瀬戸地方では「筋目の者出なくては窯焼きはできない。もし筋目でない者にうら間(登り窯の一部)などを使用させた場合は、予告せずに窯を打ち壊す。血筋の者にでも窯株を売る等のことは禁ずる。男子のない者は一人に限り養子を認める」といった厳重な申し合わせをした。これにより厳しい生産を規制した。
加藤唐四郎春慶翁伝来記
かとうとうしろうしゆんけいおうでんらいき
藤四郎の伝記については幾多の書物に記されているが、いずれも伝説の域を脱けないもので、歴史的(学問的)裏付けはできていない。今座右にある伝記関係のものだけを挙げても大変な数にのぼる。尾張瀬戸藤四郎一子相伝、茶器弁玉集、森田久右エ門江戸旅日記尾陽雑記、塩尻、万宝全書、瀬戸窯業の由来書、張州府誌、尾張国人物志略、張州雑志、古今名物類聚、瀬戸陶器濫觴、尾張志、陶器考、本朝陶器放証など明治以前のものでものれだけだが、明治以降になると数え切れない。瀬戸市陶原町の加藤繁氏所蔵の「加藤唐四郎春慶翁伝来記」は毛筆書きの原本で、瀬戸地方に現存する藤四郎伝記類のうち最古のものと思われる。内容は道元が野田の密蔵院に折々来たので、藤四郎が訪ねて禅門に入り、それが縁となって道元の入宋に従ったことになっている。道元の入宋は貞応二年(1223年)、密蔵院の創建は嘉暦3年(1328年)であるから入宋前の二人は会見したことになる。おしいことにこれらの記述のため瀬戸最古の文献も、史的価値は、大きく割引されねばならない。しかしこうした事は藤四郎伝記書のすべてが荷負うところの宿命である。
瀬戸八景集
せとはっけいしゅう
瀬戸八景集は稀にみる木版刷りの美冊である。しかし、心ある家の筺底ふかく秘蔵されて、世人の目に触れる事なく、語られる機会も少ない。又その内容が古文と、当時の能書家の筆のため解しがたい。瀬戸八景集は明治14年の刊行であったと思われる。栖雲居武貫の手によって編集され、それに加藤景登、花睡、健老の3人が校合として参与している。加藤景登は、山藤屋、加藤清助のあるじ。陶祖の碑を作り陶業につくすところが多かった人だが、傍ら風雅の道をたしなみ、自ら禅長庵を藤四郎山、陶祖の碑の傍らに営み、茶の友を語って、楽しみとしていた。武貫も瀬戸にきて禅長庵に遊ぶ1人であったが、陶祖の昔を思い、瀬戸の八景の諷詠をあつめて一集を出さんとして景登翁にはかり、花睡、健老の協力を仰いだものと思われる。内容は主として八景の発句を蒐めているが、和歌、漢詩も併せ、更に八景の絵を、地元の画家によって描かしめ、挿入されている。体載は美濃版、横綴、表紙とも25枚。瀬戸八景とは、「禅長庵暮雲」「祖母懐春雨」「深川新樹」「馬城郭公」「古瀬戸晴嵐」「宝泉寺晩鐘」「森橋納涼」「中嶋秋の月」である。
民吉街道
たみきちかいどう
故加藤庄三氏著、加藤正高氏編による書である。庄三・正高の両氏は瀬戸へ新製染付焼の技法をもたらし磁祖と呼ばれている加藤民吉の足跡を追って九州まで幾度も赴き、多くの年月と私財を投じて調査しておられる。そして庄三氏の集め、検証された原稿をご子息である正高氏が出版されたものである。この書には磁祖と呼ばれる民吉の人間像が詳細に記されている。この書には民吉のみでなく、その時代に生きた多くの人々、例えば加藤唐左衛門や津金文左衛門、天中和尚等が述べられている。又この書は両氏の企業である愛知珪曹工業の50周年の記念として出版されている。さらには1988年(昭和63年)この書をもとに瀬戸市内の社会科教師が実際に歩かれ、ビデオの教材を作成した。
をはりの花
おわりのはな
瀬戸焼に関する書で花の巻(陶工系譜)鳥の巻(雑録)風の巻(陶工銘款)月の巻(陶器図書)四巻でできている。刑部陶痴の稿本『瀬戸の花』を土台とし、加藤弓影・板野陶林がこれに新資料を加え、柴山準行の校閲を経て1902年(明治35年)脱稿し『瀬戸物』と題した。1920年(大正9年)その一部を改訂し名を『をわりの花』と改めて瀬戸陶磁器工商同業組合から発行され、1932年(昭和7年)に陶器全集刊行会がこれを複製刊行した。
保護中: 水野代官所跡
みずのだいかんしょあと
御林方奉行所跡
おはやしがたぶぎょうしょあと
瀬戸市水北町
旧上水野村北脇には尾張藩の御林方役所が置かれていた。天保年間の村絵図には上水野氏神八幡社の東山麓に「水野権平様御屋敷・御林方御役所」と記載されている。明治維新による役所廃止後は奉行所の南側にあった堀状の池は埋め立てられて畑地となり、土塀のあった石垣の一部をわずかに残すのみである。
尾張初代藩主徳川義直は定光寺周辺の山野を好み、しばしば狩猟を行った。その際に案内役を勤めたのがこの地方の土着名族水野氏であった。義直は水野久之丞の屋敷を行殿として滞留したことが記録されている。
尾張藩では寛文年間の頃に大規模な林政改革を行い、優秀山林を「留山」・「巣山」などの禁猟区を設けて「御林」とし、「平山」・「定納山」と区別した。この時設置された御林役所は勘定奉行の支配に属し、愛知・春日井両郡(享保期以前は知多郡も含まれた)の御林を管理した。水野氏が代々奉行職に就き、その下に手代・目付や案内同心が置かれた。瀬戸地域では砂留普請・植林・伐木・陶土採掘・絵薬掘などの許認可権をもって大きな役割を果たした。
(参考文献 『瀬戸市史・陶磁史篇五』)
御蔵会所跡
おくらかいしょあと
瀬戸市蔵所町
尾張藩陶磁器専売制度(蔵元制度)は享和年間(19世紀初頭)に始まった。享和二年(1802)に御蔵会所取建てが瀬戸村庄屋加藤唐左衛門に命じられ、翌年から染付焼物(新製焼)が御蔵物となり名古屋の広井御蔵納めが始まっている。産地の陶磁器製品を納入・検品・積み出しを行う御蔵会所は当初瀬戸・赤津・下品野3カ村に設置されたが、文政九年(1826)に瀬戸の御蔵会所に統合され大規模な建替えが行われている。文政年間の瀬戸村絵図には南島の入り口に 荷小屋とその後順次増築された下物小屋・絵薬土蔵・灰釉小屋など10棟以上の建物が描かれている。
平成14年、それまで活動していた市民会館が取り壊されて新たに「瀬戸蔵」の建設が行われた。それに先立って瀬戸市埋蔵文化財センターが発掘調査を行い、当時の陶磁器製品や御蔵会所の柵跡と思われる一部の遺構を検出した。
しかし、この蔵所町1番地には明治維新後の役場や勝川警察署瀬戸分署(明治10年)、瀬戸陶器館(同16年)、陶原学校新校舎(同17年)などが建設され行政・文化の中心地になっていった。
(参考文献 『瀬戸市史・陶磁史篇五』)
横山城址
よこやまじょうあと
所在地 瀬戸市效範町2丁目
「瀬戸古城史談」には名鉄瀬戸線の旧根の鼻駅の東南、県道の南一帯の畑地を「横山殿様の居城」と呼んだとある。城跡は方80間ほどあって、東側は林と竹薮で中に庵寺が在ったと記載するがそれ以上は不明である。
(参考文献:愛知県史跡整備市町村協議会 2021『「あいちのお城」調査最前線!資料集』)