坂屋敷庚申堂

さかやしきこうしんどう

所在地:下半田川町51
所有者:下半田川自治会

下半田川町坂屋敷の旧道横の丘に庚申堂がある。現在は利用されていないが、「おばあさんたちがこのお堂に集まってご詠歌を唱えていた」ことを記憶する世代がまだいる。お堂の前に、女人講中と刻まれた石仏が二体あり、それぞれ、天明7(1787)年と文政2(1819)年の銘が入っている。庚申講とは別に女性どうしが集まって信仰しまた日常生活の情報交換をする女人講が行われていたと推測される。庚申の日に五目飯を供えてお勤めをする庚申講があったことも伝わっている。定光寺町でも庚申塔に味飯を供えてお参りした。

庚申堂
女人講中と刻まれた石仏
文政2(1819)年の棟札

町内には庚申堂の他に庚申碑が2基ある。庚申堂から南西に150mほど離れた林道わきの庚申碑(西山の庚申碑)に明治12年の刻銘があることから、このお堂も同時期に建てられたとする説があるが、堂内にある2枚の棟札によれば、文政2年に庚申堂再建、昭和40年に修理されたことが分かっている。したがって、庚申堂の創建は文政2年以前の江戸時代ということになる。なお、もう一基の庚申碑(いしょうじの庚申碑)は、庚申堂から約500mほど東の林道わきにあり、これには萬延元(1860)年の刻銘がある。

礎石らしき石材と庚申堂

現在の庚申堂は明治10(1877)年前後にコレラ・はしかが全国的に大流行した折に村を疫病から守ってもらうために建てられたものと伝えられている。2間×2間の側柱建物で、屋根は寄棟となっている。もともとは萱葺だったが、平成9(1997)年にトタン葺きとなった。現在の庚申堂の東側には礎石らしき石材や平場があり、江戸時代以前にも庚申堂の建物がこの地に建っていた可能性が高いと思われる。

庚申信仰は、中国道教の説く「三尸説(さんしせつ)」をもとに、仏教、特に密教・神道・修験道・呪術的な医学や、日本の民間のさまざまな信仰や習俗などが複雑に絡み合った複合信仰である。

干支で、庚申の日は60日ごとに来るが、この夜に人間の体の中にいる三尸虫(さんしちゅう)は寝ている間に体から脱け出して、天帝にその人間の行った悪行を告げに行くという。寿命をきめる天帝は悪いことをした人に罰として寿命を縮めるといわれている。ところが、三尸虫は人間が寝ている間にしか体から脱け出ることができないので、庚申の日には、信者は会食談義をして徹夜をした。これが庚申講のはじまりとされ、眠らずに庚申の日が明ける次の日が来るまで待ったということから「お日待ち」と呼ばれるようになった。下半田川集落では昭和20年代までは地域の人が集まって「お日待ち」をやっていた。

また、青面金剛はこの三尸虫を喰ってしまうので、庚申講でこの青面金剛を本尊として拝むようになった。一晩一心に願い続ければ、病魔の退散、延命長寿もかなうとされる。町内の庚申堂の中に厨子が二つある。この中に青面金剛を描いた小さな掛け軸が納められているが、右側の掛け軸はすでに破損している。

庚申堂内の厨子