明和8年(1771)2月20日~文政7年(1824)7月4日
江戸時代後期の瀬戸染付磁器の技術躍進に尽力した陶工。その功績により、瀬戸では「磁祖」として尊崇を集めている。
大松窯の加藤吉左衛門の次男として瀬戸西谷(現:瀬戸市西谷町)に生まれ幼いころから家業を手伝い陶器を生産するも、当時の瀬戸では長男のみしか窯を継ぐことができなかったため、次男であった民吉は家族を連れて熱田前新田の開発に取り組むこととなった。
伝説では元来百姓ではない民吉は田畑に関することは不慣れであったため、視察に来ていた熱田奉行津金文左衛門(胤臣)の目にとまり、民吉が瀬戸村より来た窯屋の者であるとわかると、磁器の製法に明るかった文左衛門は吉左衛門・民吉父子にその製法を伝授することにしたとなっている。また、文左衛門の指導のもと染付焼の製作を行うも精巧なものは作れなかったため、享和3年(1803)に三田の窯(現:兵庫県三田市)へ視察に行ったとされているが定かではない。
瀬戸で染付焼を作るも精巧なものは作れず、吉左衛門は九州に行ってその技法を学ぶべしと考え、民吉を九州へ遣わし磁器生産を学ばせたいと水野代官水野権平へ出願した。その後文左衛門の養嗣子である津金庄七や水野権平、加藤唐左衛門の尽力により尾張藩の許可を得た民吉は愛知郡菱野村(現:菱野町)出身の天中和尚を頼り文化元年(1804)2月22日に瀬戸を出発して東向寺(熊本県天草市)へ向かった。その後曹洞宗の寺院を渡り歩き、自分の身分を明かした上で磁器生産について学んだ。製土法・成形法・釉薬調合法・焼成法・絵付技法などを学んだ民吉は文化4年(1807)5月13日に帰国の途につき、6月18日瀬戸へと帰った。その後、磁器を焼くための丸窯を瀬戸の各所に作成、また磁器にふさわしい素地を作り出し瀬戸焼発展に尽力した。
参考 瀬戸市史編纂委員会『瀬戸市史 陶磁史篇三』(1967年)
加藤庄三『民吉街道 瀬戸の磁祖・加藤民吉の足跡』(1982年)
藤井能成『民吉読本 民吉ものがたり』(1997年)