伝承地 瀬戸市駒前町
時代背景 天保年間(1830年~1844年)
むかし、天保(てんぽう)のころ(江戸時代末期(まっき)、一八三〇年~一八四四年)、瀬戸本地(ほんじ)村に、菱野から名古屋に通じる松並木(まつなみき)の街道(かいどう)がありました。ときどき松並木の上や、街道筋で猿が遊んでいるのを見かけたそうです。その付近に壷井(つぼい)左内(さない)というお医者(いしゃ)さまがいました。
酒好きで知られる左内は、毎日のように居酒屋(いざかや)や家で酒を飲み赤い顔をして、よろよろとして街道を歩いておりました。
「左内先生、猿から酒をもらったそうな。」
と、村人たちがうわさをしていましたが、どうして猿から酒をもらったかはわかりません。
そんなある夜ふけ、左内の表(おもて)戸(ど)を軽(かる)くたたくものがありました。出てみると、猿が立っていて、いろいろ身(み)振(ぶ)り手振(てぶ)りをします。どうも腹痛(ふくつう)のようなので、薬草(やくそう)を飲ませて帰しました。
数日後の夜ふけ、すっかり元気になった猿の夫婦が、お礼に一升(いっしょう)どっくりに自分で作った「さる酒」をつめて持って来たのでした。
その後も、たびたび左内を訪ねては治療(ちりょう)してもらい、酒をお礼に持ってきましたが、この夫婦の猿もしばらくして姿が見えなくなり、人々の記憶(きおく)から消えていました。
しかし、それからずっと後になって(昭和三〇年ごろ)、本地村のお百姓さんたちは、田植えを終わり、田の雑草を抜くまでの合間(あいま)を利用して、宝生寺(ほうしょうじ)本堂(ほんどう)の屋根のふき替えを行いまし。
住職(じゅうしょく)や檀家(だんか)の話し合いで、かやぶきの屋根を瓦にかえることになりました。
檀家総出で、草屋根をめくっていくと、屋根裏と天井(てんじょう)の間に、ほこりやワラにまじって、何かがひそんでいるようでした。近寄ってみると、二匹の猿が抱(だ)き合うように座(すわ)っており、ミイラ化していました。この寺の本尊(ほんぞん)は釈迦(しゃか)如来(にょらい)でしたが、別に庚申(こうしん)像(ぞう)も祀ってありました。猿のミイラは、この庚申像の天井あたりで発見されたので、村人の驚(おどろ)きは一層(いっそう)大きかったのです。
猿は庚申のお使いものといわれ、宝生寺の庚申像のひざ元には、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三びきの猿の像が置かれていたのです。
檀家のお年寄りの間には、天保年間の左内医者と猿の話を思い出す者がいて、
「あのときの猿に違いない。あのときの猿は庚申さまの使いだったのだ。」
と、驚き、思わず手を合わせる村人もいました。
発見の様子(ようす)から、庚申像を祀った本堂の屋根裏で死に、残った一ぴきは、その死体をだいたまま、何も食べずに命をたったものと思われます。一ぴきはミイラ化した姿で、もう一ぴきはやや腐敗(ふはい)した形で見つかったからです。
人々は、二つのミイラから、猿の愛情がこまやかで、かえって賢(かしこ)いはずの人間の方が見習わなくてはと話し合って、おおいに反省したとのことです。