伝承地 瀬戸市下半田川町
国道二四八号線を、蛇(じゃ)ケ(が)洞(ほら)浄水場(じょうすいじょう)から旧道へ折れ、峠から通称七曲(ななま)がりの坂を下りきって、胴坂(どうざか)とぶつかる所は、かつては、南からの本流と東からの支流がいっしょになって、岩にくだける水音がごうごうと鳴り響く谷川の景観でした。特別天然記念物「オオサンショウウオ」の県内唯一の繁殖地としても知られていますが、最近は環境汚染などで生息が危ぶまれています。
さて、この谷川にまつわる昔話
それは、大永(だいえい)年間というから、世の中は乱れて豪族(ごうぞく)が争い、戦乱に明け暮れた戦国時代のころのこと。
春は桜、秋はもみじの国定公園「岩屋堂(いわやどう)」の渓流から流れ出る鳥原川の流域、鳥原の里は古くから人が住んで遺跡もあることから昔のままの山里の名残りを今も留めています。
この鳥原の「岩松」という家に身を寄せていた平景(たいらのかげ)伴(とも)という武士がいました。魚釣りが大好きで、毎日のように近くの川へ出かけてたくさんの魚を釣って帰るのを自慢にしておりました。
今日も、えものを探して釣り竿とビク(釣った魚を入れるふたのあるかご)を持ち、そのころ三国川といったこの谷川にやってきました。岩陰の深みに糸をたれていると、釣れるは釣れるは、大きな白ハエが次から次へとかかってくるではありませんか。
われを忘れて釣っているうちにビクにいっぱいになりました。
景伴は、思わぬ大漁にうきうきとして胴坂を上り、夕日にそまった山道を家路に向かいました。日が暮れかかったころ、岩松の家について、どっかとビクを下した景伴は、出迎えの人々に大いばりで
「みなの方々、まず拙者(せっしゃ)の腕前(うでまえ)をご覧くだされ。このとおり・・」
ぞうりもぬがずに大声でわめく声に、みんなはビクのまわりを取り囲みました。意気揚々(いきようよう)の景伴は、得意(とくい)顔(がお)でビクのふたを取りました。
「あっ、こりゃどうじゃ。」
肩にずっしりと重かったはずの獲物が、開けてびっくり。白ハエの銀色が笹の葉の緑に変わってビクにぎっしり。
「こりゃ、なんとしたことじゃ。」
大いばりで大声をあげた手前、かっこう悪くなった景伴は、すっかりしょげて、
「この村には悪い狐がおりまするでなあ。それにしても、景伴さまともあろう方をたぶらかすとは太いやつじゃて・・・」
恐ろしくむずかしい顔をして考え込んでしまいました。
気まずい夕食を終えた景伴は、あくる日も同じように同じ場所へ出かけて釣りをしました。そして、同じようにたくさん釣れました。
景伴は、ビクの中を見直し、ぴちぴち跳(は)ねるハエがふたの近くまで盛り上がって動いているのを見て、
「たしかに白ハエだな。よし。」
用心深くビクのふたをして立ち上がりました。途中、何度となく立ち止まっては中をのぞいて帰って来ました。
「今日はたしかに魚だぞ。ほーれ。」
と、開けたビクの中は、何とまた笹(ささ)の葉ばかり・・・。
「やっ! またやりおったか。うーむ。にくい奴め。うーむ。」
出迎えた岩松はなぐさめることばもありませんでした。
その夜、まんじりともしなかった景伴は、次の日いつもより早く出かけて、同じ場所あたりに気を配りながら釣り糸をたれていました。
すると、すっと川上から生臭い風が吹いてきました。見ると、岩に体を巻き付けて頭を持ちあげ、大きな口を開けて今にも跳びかかりそうにじっとこちらをにらんでいる大蛇(だいじゃ)がいました。景伴は、
「おのれ! こやつの仕業じゃな思い知れ。」
とばかりに、用意してきた弓に矢をつがえ、力いっぱい引きしぼり、大蛇めがけて放ちました。矢は、ビューと音をたてながら大きく開いた大蛇の口深くにつき刺さりました。と思う間に、一てん、にわかにかき曇って雷鳴(らいめい)がとどろき、たたきつけるようなどしゃぶりの雨が一時間余りも降り続きました。
雷鳴も次第に収まり、ようやく明るくなり始めた岩の上に、びしょぬれのまま二の矢をつがえてつっ立った石像のような景伴の姿がありました。
気がつくと、さすがの大蛇も急所(きゅうしょ)を射たれて力なく、首を濁流(だくりゅう)の中に突っ込み動こうともしません。大蛇の血は川の水を染めてまっ赤。川の流れは、流れても流れてもまっ赤に染まり、七日七夜の間、緋(ひ)桃(もも)の花を流したようだったと言います。
「すごい大蛇だったのう。」
「さすが、景伴さんは強いお人だのう。」
と、村人たちは、うわさしあいました。
そして、この深みの主(大蛇)のたたりを恐れてささやかな祠を建ててお祀りしました。
そうして、この深みのことを「蛇(じゃ)が(が)洞(ほら)」と言うようになりました。
三国川の名は、七日七夜流れた血潮の花くれないにちなんで「花川」と呼ぶようになり、その「花川」が移り変わって「はだ川」(半田川)と呼ばれるようになりました。そして、このあたりの地名にもなったということです。