馬ヶ城

うまがじょう


伝承地 瀬戸市馬ケ城町
 時代背景 桑下城は応仁の乱の際、東軍:に属して敗れた美濃国安八郡今須城主長江氏の一族、長江利景(近世地誌類では永井民部少輔)が尾張国春日井郡科(品)野の地に逃れて落合城(瀬戸市落合町)に入り、のちに築いた城とされている。長江利景は文明14年(1482)、今村城主の松原広長と大槇山・安土坂・若狭洞で戦って勝利を収め、瀬戸市一帯を手中にした。その後、16世紀に入ると、尾張・三河・美濃の国境に接するこの地は松平氏と織田氏で激しい勢力争いの場となり、享禄2年(1529)には松平清康(徳川家康の祖父)によって支配されるにいたる。そして、永禄3年(1560)、桶狭間の戦いの前哨戦として、前述の落合城や、水野川をはさんで桑下城の南側にある品野城とともに 織田信長の攻撃を受けて焼失し、廃城となったとされている。
 戦国時代(一四六七年~一五六八年)のころ、品野の井山に男ぎつね、赤津の白根山(赤津の雲(うん)興寺(こうじ)の近くの山)に女ぎつねが住んでいました。
 この二匹のきつねは、いつも化(ば)かしあっていて、あまり仲がよくありませんでした。
 ちょうどこのころ、北の国から流れてきた永井という侍(さむらい)が、上品野の桑下(くわした)に砦(とりで)をつくり、頑張っていました※1。
 ところが、この地方のほとんどを治(おさ)めていた織田(おだ)という侍は、この永井のことが気にかかっていました。
このことを知った男ぎつねは、永井という名前を使って女ぎつねや村の人たちをびっくりさせようと思いつきました。
 そこで、ある日、男ぎつねは、永井の使いの者に化けて織田の侍たちのいるところへ向かいました。その途中で、織田方の使いの者とばったり出会いました。この織田の使いの者は、男ぎつねに負けたくないといつも考えている女ぎつねの化けた姿でした。二人は、手紙を交換し合ってみると、どちらにも
「いくさを仕掛けるぞ。」
ということが書いてありました。
いよいよ両者がいくさになりました。永井の侍たちは、やりや刀などの道具のそなえもしっかりして、いくさをしようという場所の瀬戸村の砦へ向かいました。
 砦に着いて、あたりを見ましたが織田の侍たち一人もいません。永井の侍たちは、
「これはうまくいった」と思い、さらに勢(いきお)いよく進みました。
すると、とつぜん馬のいななきとひづめの音が聞こえてきました。それも何百何千頭もいる様子です。その数に驚いた永井の侍たちは、先を争(あらそ)って逃げてしまいました。しばらく逃げてから、ふと後ろを振(ふ)り向(む)くと、あれほどいた馬の影も形もなくなって、ただあざけり笑う声だけが、砦にこだましていました。これを見ていた一人の老人は
「さすがの男ぎつねも、とうとう女ぎつねにしてやられたな。女ぎつねの方が役者が一枚上だ。」
と、村人に話すのでありました。
 いくさをした場所が、「馬が城」という所で、何百年たった今でも地名となって残っています。
⇒ 「馬ヶ城」の項参照