山口堰堤

やまぐちえんてい


瀬戸市海上町・若宮町2
 市制準備を整えていた瀬戸町が、馬ヶ城水源地に貯水ダムと浄水場建設を発表したのは昭和2(1927)年のことであった。集水域が狭く、不足する水は尾根を越えた赤津川から導水管でまかなう計画であった。これを知った山口川流域(赤津川の下流)の農民(当時愛知郡幡山村)は、この河川を潅漑用水の取水源としていたので大騒ぎとなった。絶えず渇水に悩まされていたから、最上流部の旧山口村では「一滴たりとも他に引用することは一大事」と部落協議が続いた。『幡山村誌』には「4月30日夜、山口本泉寺で村民大会が開かれ、血気盛んな若衆から“むしろ旗を押し立てて県庁へ(用水確保の)農民一揆”が提案、決行が決議された。村内の要所要所にある半鐘を打ち鳴らした。これを合図に一戸一戸蓑傘姿、わらじ、股引、手弁当で集まり、むしろ旗を先頭に勢ぞろいした。村人達は堂々と西を指して出発した」とある。この騒動は結局失敗したが、これをきっかけにその後は再三瀬戸町役場と交渉、2区選出の樋口善右衛門代議士も仲介、渇水対策のための山口堰堤の建設が決まった。費用は全て県費を充て、瀬戸町も毎年1万円を堰堤管理費として旧山口村に支払うことが決まった。それからはむしろ積極的に建設に協力、幡山村から輪番で延べ数万人の人夫を出してついに昭和9(1924)年3月に完成した。総工費6万490円余、貯水量178立方キロメートル、広さ58平方キロメートル、高さ17.1メートル、利用水田568町歩の堰堤であった。
(資料「山口今昔」他)