明治29年(1896)3月7日~昭和60年(1985)12月3日
岐阜県土岐郡笠原村に生まれる。愛知県立陶器学校(現愛知県立瀬戸窯業高等学校)を卒業。在学中、教師であった日野厚の影響を受ける。大正4年(1915)に東京高等工業学校図案科(現東京工業大学)を卒業し、嘱託教師として奉職するが、大正8年(1919)に辞職し、同年南満州鉄道㈱に入社、満鉄中央試験所でガラスの研究に従事する。昭和2年(1927)、留学生としてドイツ国立シュトゥガルト美術工芸学校に留学。クリスタル工芸ガラス器の研究・製作を専攻する。昭和4年(1929)卒業し帰国する。翌5年東京郊外滝野川に各務クリスタル工芸硝子研究所をつくり、工芸ガラスの研究をした。昭和6年(1931)帝展初入選、昭和9年(1934)には帝展特選を受賞する。同年、東京都大田区西六郷に各務クリスタル製作所を設立し、ガラス製造の一貫作業ができる工場とした。
昭和10年 (1935)代には、陶器学校時代の同級生であった加藤華仙の依頼を受け、中央から板谷波山などを呼び陶芸家が瀬戸で直接指導を受けられるよう尽力した。その結果入賞・入選者が多く出て隆盛を極めたことにより、瀬戸の陶芸界では高く評価されている。