昭和8年(1933)9月22日 市長に就任
昭和9年(1934)3月7日 退任
上水道慰労金問題が紛糾し小出市長が辞任すると、瀬戸市政はしばらく市長不在のまま混乱を極めた。市会が二つに分かれてにらみ合いとなり、市長の選出についても1か月以上の空白が続いたが、こうしたなかで稲葉俊太郎が第二代市長に就任した。稲葉市長は明治15年(1882)佐賀県に生まれ、東大卒業後、広島県警などを振り出しに、青島守備軍民生部事務官や関東庁警務官などを経たあと、もっぱら各県の警察畑を歩いてきた人物で、愛知県内務部長をつとめた縁もあり、瀬戸市に迎えられた。
稲葉市政の業績としては、小出市長時代からの瀬戸少年院の誘致や瀬戸市少年保護協会の設立が挙げられる。瀬戸少年院は小出市長時代から誘致が始められ、開設は稲葉市長が退任した後となるが、開設に至るまでの準備はこの稲葉市長の時代におこなわれており、また瀬戸市少年保護協会の会長に就任している。
市会の改選の結果、改めて稲葉市長と対立する側が多数を占めると、市長が提出した翌年度の予算案の返上案が可決された。このため稲葉市長はその日に辞表を提出、就任半年足らずで職から降りることになった。