瀬戸市穴田町
水野地区も窯業の盛んな地区である。寛文年間(1661~73)にこの地にあった窯屋が東濃地方を中心に移住させられて以来、明治維新になるまでその操業は一切許されなかった。明治5(1872)年旧上水野村の田中伊六・同七十郎・中根明敏が共同で本業窯を始めたが失敗した。また、上水野村余床でも加藤久蔵・同鎌之助・同文衛門・同金兵衛・同半助・同孫兵衛の6人が共同窯を興したがこれも失敗した。同7年にも上水野村北脇で磯村平四郎・同市兵衛・同要蔵・松下久之進・松原五平の5人で磁器生産の共同窯を築いたがやはり失敗している。
上水野の穴田山上に「水野焼中興之祖頌徳碑」が建っている。これは昭和28年4月に地元の製陶業者48名が建立したものである。碑文には、「明治三九年四月、東春日井郡神宮堂(じぐどう)に於いて、磯村桂太郎・加藤嘉蔵・同民助・同浦吉・同不二松・同鉄五郎・同鉄太郎・松本鎌太郎ら八名は協力して登窯を築き磁器製造を開始した」とある。
これ以降、水野地区では和物(丼・湯呑・小鉢類)生産が盛んになり、昭和10年(1935)には29軒の窯元を数えた。