瀬戸市中水野町
旧中水野村鳥林には明治維新になるまで、水野代官所が置かれ、愛知・春日井郡の大部分と美濃国の一部を含む111カ村、6万石余を統括した。代官所(陣屋)は天明元年(1781)の尾張藩「天明の改革」で、従来の国奉行制度から領内を分割管掌する所付代官制で誕生したものであった。初代代官は現在の水北町に在った御林方奉行所の水野正恭奉行が兼任した。代官の下に補佐する4人の手代、さらに各地の番人を監督する8人の同心が置かれた。『東春日井郡誌』に現在の水野小学校が建つ位置には、司所・吟味所・道場・官宅・倉庫・牢屋などの建物があり、藩士の子弟を教育する藩校明倫堂の分校興譲館も示した絵図が載る。
里謡に謡われた「山の中でも水野は城下、地方(じかた)・山方(やまかた)両役所」は、江戸時代に二つの地方政庁が置かれたことを指している。水野代官所は慶応四年(1868)7月に廃され、同年8月に「東方総官所」と改称された。
(参考文献 『瀬戸市史・陶磁史篇五』)