瀬戸山離散

せとやまりさん


16世紀後葉以降、瀬戸市域で大窯によるやきもの生産を行った窯跡は現段階で確認されておらず、その代わりに生産の中心が美濃窯へと移っている。このことを「瀬戸山離散」として、相次ぐ戦乱などにより瀬戸から陶工が美濃へと流出した時代とされてきた。その一方で永禄六年(1563)の今村の市に立てられたとされる織田信長制札や、天正二年(1574)の陶工加藤市左衛門宛織田信長朱印状では、瀬戸における「せともの」そのほかの円滑な取引を保証し、新たな諸税をかけないこと、他所で窯を立てることを禁じ、窯屋を自らの保護と統制下に置いたことがうかがえる。こうしたことから近年では、瀬戸窯の工人が織田信長の美濃進出に伴い、国境を越えて窯業生産を展開した、まさに大発展の時代であった説も唱えられている。