明治時代には、10~12歳の「ヤロ」といわれる少年が働いていた。家庭が貧しくて教育を受けることのできない少年が多く、なかには、岐阜・石川・京都の陶業地から働きにくる者もいた。彼らは、業者の家に住み込んで、衣服をもらい、不定期に少しばかりの給金をもらっていた。おもな仕事は、土うち・土ふみ・土おし、などであった。研究熱心な少年は、余暇を利用して、ろくろ・陶画の練習をし、やがては工人になる者もあった。工人になると、「一日いくら」の給金が与えられた。このように、ヤロといわれた少年が一人前の工人になるには、少なくとも8~9年の年月が必要であったといわれている。なかには一人前の工人になれず、雑役工として終わる者も多くいた。大正時代になると、特殊な技術を必要としなくなり、技術を習得する期間も短縮され、このような徒弟制度は、しだいになくなっていった。