瀬戸環状東部線

せとかんじょうとうぶせん


瀬戸市の中心市街地における交通混雑は、「放射状の幹線道路網配置による特定路線への交通集中」及び「名鉄瀬戸線による南北交通の阻害」が主な要因となっている。
広域交通体系へのアクセス利便性の向上を図るとともに、市街地内を経由することなく本市を通過する交通を処理するため、市街化区域の外郭に環状道路網を形成・整備が推進されている。瀬戸環状東部線、第3環状線、瀬戸環状西部線、瀬戸環状北部線が、外環状道路として取り組まれている。
瀬戸環状東部線は、南山口町から広之田間が都市計画決定され、現在、南山口から南山大学南、塩草土地区画整理事業地内を経由して赤津に至る区間が、事業区間として整備が進められている。南山口の国道155号(国道248号)から東へ約900m、赤津の東海環状自動車道の「せと赤津」インターチェンジの前後約1200mの区間が供用開始されている。
この道路が完成すると中心市街地を通過する国道248号のバイパスとなり、中心市街地の交通混雑の緩和が図られ、瀬戸市南部から東海環状自動車道「せと赤津」インターチェンジへの接続時間の短縮が見込まれる。

瀬戸環状東部線(塩草町交差点付近)
瀬戸環状東部線(塩草町交差点付近)

瀬戸環状西部線

せとかんじょうせいぶせん


広域交通体系へのアクセス利便性の向上を図るとともに、市街地内を経由することなく本市を通過する交通を処理するため、市街化区域の外郭に環状道路網を形成・整備が推進されている。瀬戸環状西部線の整備もその一つである。
森林公園東の縁に沿って走る道路で、瀬戸市の北みずの坂3丁目から尾張旭市新居の海老蔓(森林公園東交差点)までが都市計画決定され、水野・山手特定区画整理事業により整備され、現在は供用開始されている。

瀬戸環状西部線(北みずの坂2丁目付近)
瀬戸環状西部線(北みずの坂2丁目付近)

陶の路

とうのみち


瀬戸市では「陶の路」-伝統を感じ夢を語る出会いの散歩道・せと-というキャッチフレーズを持つ4つの散策路を設定し、市民が歩きやすい安全で快適な道づくりを進めるとともに、市外から訪れる人々に瀬戸の歴史や文化を分かりやすく示しながら、やきものに触れたり、楽しく買い物ができるルートを平成11年度から順次整備している。
○「暮らしっくストリート」(くらしっくすとりーと)平成11~13年度 整備延長1300 m
日常の生活シーンを彩る“暮らし”をテーマとしたルートであり、縁日的な賑わいの演出とアンティークな雰囲気づくりをミックスした生活提案型散策路。
○「小狭間坂」(こばさまざか)平成12~23年度 整備延長 1370 m
中心市街地を見渡す眺望機能を活かすほか、やきものに限らず、茶道、工芸、絵画などの多彩なジャンルの芸術に触れられる時空間を提供する散策路。
○「洞街道」(ほらかいどう)平成14~16年度 整備延長 1400m
瀬戸のやきものの伝統と文化が色濃く残る洞地区。窯道具で飾られた散策路の「窯垣の小径」や「窯垣の小径資料館」の味わいのあるたたづまいや施設が拠点となっている。
○「炎護路」(えんごろ) 平成22~26年度 整備延長 800m
やきものと関係が深く歴史のある神社から、窯元ゾーン、宮前公園を結ぶ坂道であり、窯道具で飾られた垣根を鑑賞しながら、伝統的な工芸技術の伝承を感じる散策路。

瀬戸市建設課 陶の路ページ

陶の路案内板
陶の路(暮らしっくストリート)
陶の路(暮らしっくストリート)
陶の路(暮らしっくストリート)
陶の路(暮らしっくストリート)
陶の路(小狭間坂)

瀬戸菱野トンネル

せとひしのとんねる


瀬戸市南部の住宅地と中心市街地を結ぶ「瀬戸菱野トンネル」が、平成16年(2004)3月20日に開通した。
瀬戸菱野トンネルを含む都市計画道路菱野線(県道愛知青少年公園瀬戸線)は、北に国道155号を経由して春日井市方面へ、南には、力石名古屋線に接続し、東尾張地域の南北軸を形成する重要な路線である。
南部の住宅地と中心市街地との間には標高差約30mの丘陵地があり、両地域の連携を阻んでいたが、このトンネルの開通により、周辺地域との交流が促進され、より一層の地域の活性化と産業の発展が期待される。
トンネル構造は、地山が砂層と未固結シルトの互層であり、土かぶりも20m程度と浅いため、断面は扁平形のめがねトンネルとして掘削断面の最小化が図られている。事業主体は愛知県(尾張建設事務所)、トンネル工事費は約38億円、平成11年(1999)10月14日に工事着手し、5年の歳月をかけ完成をみた。この開通により菱野線の全線が完成した。
トンネルの名称は、市民公募により決定した。

瀬戸菱野トンネル

バカ道路

戦時中に市民の家屋を強制的に立ち退かせて建設した防火帯、宮前南北道はその強引さとバカ広さから「バカ道路」と呼ばれた。

宮前南北道

中馬街道

ちゅうまかいどう


中馬は、江戸時代に信州の駄賃馬稼ぎ人たちがつくっていた同業者の組合で、「賃馬」(ちんば)などの語源と言われる。五街道などの伝馬と異なり、宿場ごとに馬を替える必要のない「付通し」あるいは「通し馬」と呼ばれる仕組みで行われた。
瀬戸街道も、馬による輸送業者の信州中馬が陶器や生活物資を運ぶのに利用した産業道路である。

殿様街道(定光寺街道)

とのさまかいどう(じょうこうじかいどう)


尾張藩の藩祖、徳川義直の廟所(埋葬場所)が築かれている定光寺と名古屋城下を結ぶ道筋の一部が定光寺街道で、歴代の藩主が廟所を参拝する時に利用したことから、俗に「殿様街道」と呼ばれていた。

1.殿様街道の道程

この街道は、藩主たちが行列を組んで名古屋城を出立し、名古屋大曽根から信州飯田街道(瀬戸街道)を東へ進み、現在の尾張旭市城前町の「砂川(すがわ)」交差点から少し東にあった八瀬(やせ)の木の「つんぼ石」で左へ折れ、城山公園の前から濁(にごり)池の畔を通り、森林公園運動広場や乗馬場を通り抜けて、尾張旭市と瀬戸市の境にあった最初の難所の柏井(かしわい)峠へ向う。ここから水野団地を通り越し、水野川を渡って街道筋にある薬王山東光寺へ到達する。東光寺には歴代藩主のうち4人が参拝途中で休憩のため立寄ったという記録が残っている。

東光寺前を出立して、旧中水野村(三沢町1丁目)集落の北側から大平(おおひら)山(定光寺自然休養林)麓の山路をしばらく進むと、敷き詰めた石畳の急な坂道になる。この辺りは「石坂(いしざか)」と名付けられ、石坂峠までの景観は殿様街道の面影が最も色濃く残っている。

石坂峠から北へ登ると殿様街道の最大の難所である丸根(まるね)山の頂へたどり着くが、その間の正確な道筋は詳らかではない。丸根山の頂には、中部森林管理局が運営する定光寺自然休養林の大駐車場や森林交流館が設けられ、森林美豊かな行楽地となっている。尾張徇行記(おわりじゅんこうき)には丸根山の頂を「横笛嶺(よこぶえとおげ)」の名で記され、昔から庄内川や高蔵山辺りを一望に見渡せる風光明媚な景勝地とされていた。

横笛嶺から北へ向う祠堂(しどう)山の山路は東海自然歩道と重なっており、正伝(しょうでん)山の南麓で右折して道なりに進むと定光寺公園に至る。現在は正伝池を中心に定光寺公園として整備されているが、昔は正伝池の排水堰辺りに「霊亀岩(れきがん)」という巨岩があり、この石を跨ぐように板橋が架けられていた。霊亀岩橋を渡って北東へ少し進むと定光寺門前の広場に到達する。この広場は馬から降りた場所というので「下馬(げば)」と呼ばれていた。下馬には「直入(ちょくにゅう)橋(ばし)」という石橋が架けられ、そこから先は「烏石嶺(うせきりょう)」という名の九十七段の石段が続き、山門まで徒歩で登る。目的地の廟所は定光寺境内の北東最頂部に設けられている。

廟所参拝路の総道程は約六里(24km)であるが、このうち八瀬の木の「つんぼ石」から定光寺門前までの約三里(約11km)の道程が「殿様街道」と呼ばれている。ただし江戸時代の文献には殿様街道という街道名は著されておらず、定光寺街道・定光寺御道筋・御成筋・往還通りなどの様々な名称を用いて記されている。

この殿様街道の道筋は古くから存在し、古くは「笠原街道」と呼ばれ、徳川義直も遊猟時にたびたび利用した。

笠原街道は定光寺からさらに東へ延び、下半田川村を通り美濃笠原村へとつながっており、下街道の脇道ともいわれ、ここから下街道を経て中山道に通じており、祖廟参詣のための街道だけではなく、生活道路でもあった。

【石畳を敷いた石坂】

【横笛嶺(丸根山頂)の展望】

2.もう一つの殿様街道

中水野村を通る殿様街道は丘陵地帯を通過するため起伏が激しく、新居村から中水野村を経て定光寺へたどり着くまでに難所が2か所もあり、大名行列に適していなかった。

廟所造営の後の73年間は、大森村(守山区)で瀬戸街道を左折して志段味村を経て、東谷山の麓である下水野村十軒家(十軒町)から水野川渓谷沿いの旧道筋を通って下水野村入尾(鹿乗町)へ出、庄内川右岸沿いの岩割瀬(いわりぜ)を通り、正伝山の南麓を抜けて霊亀岩橋を渡り、定光寺門前へ至る道筋を利用した。

この道筋は比較的起伏が少ないこともあり「姫街道」とも称した。国道155線の山裾崖の真上に今でも道筋が残っているが、片側が断崖絶壁となり危険で通れない。

水野川の渓谷沿いには、藩主たちが名勝の目鼻(めはな)石(いし)・東門(とうもんの)滝(たき)・筆捨山(ふですてやま)を眺めて小休憩したと伝わる「御賞覧場(ごしょうらんば)」がある。

【目鼻石】

享保10年(1725)中水野村に水野大橋が整備されたので、新しい殿様街道が祖廟参拝の道路として使われることになった。

尾張藩は街道筋の村々に対して、村ごとに人足を出させるなど、橋の整備のみではなく、街道全般の整備にも力を入れていた。

二代藩主光友、三代藩主綱誠、四代藩主吉通の3人は、古い殿様街道(姫街道)を利用して祖廟を参拝したと考えられる。

 

3. 余話 廟所造営等

徳川義直は慶安3年5月7日(1650.6.5) 江戸麹町の市ヶ谷藩邸で死没したが、遺骸は直ちに国許へ戻り、定光寺へ運ばれ埋葬された。その後、慶安5年(1652)までの3年間をかけて二代藩主光友が廟所を完成させた。同時に霊亀岩を跨(また)ぐ「霊亀岩(れきがん)橋(ばし)」も架けられた。

昭和36年に定光寺公園の正伝池が造成される迄は、この一帯はのどかな田園風景であり、田畑の間を縫うように大洞川が流れて、定光寺門前の南西で川を堰き止めるように「霊亀岩(れきがん)」という亀の甲羅に似た巨岩が渓流に露出していた。その下流は美しい「御手洗(みたらい)川」の渓谷が続いていた。昔は霊亀岩を跨(また)ぐように、立派な板橋が架けられていたと伝わっている。霊亀岩橋は藩主専用であるから、村民は隣にあった粗末な土橋を渡ったと言われている。今はコンクリート製の模造の霊亀岩橋が架けられている。

三州街道
(三州小原道・八草道・広見道) 

さんしゅうかいどう


今村東端の追分で飯田街道から分かれ、三河に通じる街道は三州街道と言われていた。三州街道は瀬戸村の十三塚を通り、瀬戸川沿いを東進すると東本町付近で東行きと南行きに分岐する。東向きのルートは、祖母懐・今坂を抜け赤津村に入り、赤津盆地の北側を通って白坂雲興寺門前を過ぎ、戸越峠を越えて戸越村飯野(現豊田市藤岡)に通じていた。飯野の先に小原村や足助村に通じていたため、三州小原道あるいは三州小原足助道と呼ばれていた。
南向きのルートは、瀬戸坂を越えて山口村に入り、大坪あたりで山口道と合流し、その南で南進する三州八草道と南東尾根筋に向かう三州広見通とに分かれている。三州八草道は挙母(現豊田市)を経て岡崎に、三州広見通は力石(現豊田市)を経て足助村に通じており、中でも後者は猿投神社への参詣道でもあった。

三州街道
三州街道

笠原道

かさはらみち


定光寺街道(殿様街道)は定光寺からさらに東に延び、下半田川を通り美濃笠原村へとつながっており、下街道脇道とも呼ばれ、美濃側では下街道を経て中山道に通じていた。この道は笠原道と呼ばれ、古くは南側丘陵のより上方を通り、沓掛村・下半田川村の集落もこちらを中心に分布していたとも伝えられる。

国道363号線

こくどう363ごうせん


名古屋市名東区から岐阜県中津川市に至る一般国道である。瀬戸管区では瀬戸と尾張旭市の境界小坂町より市内中心部を通過し、品野より東の片草町に向かって岐阜県土岐市との境界までである。
市内中心部で、国道248号(東本町交差点-品野交番前交差点)と国道155号(東本町交差点-瀬戸橋南交差点)が重複区間となっている。
国道363号は「瀬港線」と呼ばれ、瀬戸と名古屋港を結ぶ産業道路として発展してきた。瀬戸から陶磁器製品を貿易のために名古屋港から輸出、帰りには陶磁器の原料や燃料を運んだ。ちなみに、瀬戸市の共栄通の交差点から尾張旭市北本地ヶ原一丁目までの約5,580mが都市計画道路「瀬港線」である。

国道363号線(片草町周辺)
国道363号線(片草町周辺)
国道363号線(中馬街道看板)