瀬戸市蔵所町
尾張藩陶磁器専売制度(蔵元制度)は享和年間(19世紀初頭)に始まった。享和二年(1802)に御蔵会所取建てが瀬戸村庄屋加藤唐左衛門に命じられ、翌年から染付焼物(新製焼)が御蔵物となり名古屋の広井御蔵納めが始まっている。産地の陶磁器製品を納入・検品・積み出しを行う御蔵会所は当初瀬戸・赤津・下品野3カ村に設置されたが、文政九年(1826)に瀬戸の御蔵会所に統合され大規模な建替えが行われている。文政年間の瀬戸村絵図には南島の入り口に 荷小屋とその後順次増築された下物小屋・絵薬土蔵・灰釉小屋など10棟以上の建物が描かれている。
平成14年、それまで活動していた市民会館が取り壊されて新たに「瀬戸蔵」の建設が行われた。それに先立って瀬戸市埋蔵文化財センターが発掘調査を行い、当時の陶磁器製品や御蔵会所の柵跡と思われる一部の遺構を検出した。
しかし、この蔵所町1番地には明治維新後の役場や勝川警察署瀬戸分署(明治10年)、瀬戸陶器館(同16年)、陶原学校新校舎(同17年)などが建設され行政・文化の中心地になっていった。
(参考文献 『瀬戸市史・陶磁史篇五』)
カテゴリー: 史跡
御林方奉行所跡
おはやしがたぶぎょうしょあと
瀬戸市水北町
旧上水野村北脇には尾張藩の御林方役所が置かれていた。天保年間の村絵図には上水野氏神八幡社の東山麓に「水野権平様御屋敷・御林方御役所」と記載されている。明治維新による役所廃止後は奉行所の南側にあった堀状の池は埋め立てられて畑地となり、土塀のあった石垣の一部をわずかに残すのみである。
尾張初代藩主徳川義直は定光寺周辺の山野を好み、しばしば狩猟を行った。その際に案内役を勤めたのがこの地方の土着名族水野氏であった。義直は水野久之丞の屋敷を行殿として滞留したことが記録されている。
尾張藩では寛文年間の頃に大規模な林政改革を行い、優秀山林を「留山」・「巣山」などの禁猟区を設けて「御林」とし、「平山」・「定納山」と区別した。この時設置された御林役所は勘定奉行の支配に属し、愛知・春日井両郡(享保期以前は知多郡も含まれた)の御林を管理した。水野氏が代々奉行職に就き、その下に手代・目付や案内同心が置かれた。瀬戸地域では砂留普請・植林・伐木・陶土採掘・絵薬掘などの許認可権をもって大きな役割を果たした。
(参考文献 『瀬戸市史・陶磁史篇五』)
保護中: 水野代官所跡
みずのだいかんしょあと
曽野の礎石
そののそせき
瀬戸市曽野町
瀬戸市曽野町の水田の中に「作石(つくりいし)」と呼ばれてきた花崗岩の巨石がある。この四角形の巨石は、縦180センチ、横190センチ、厚さ47センチで、上面の中央部には径57センチ、深さ6センチの浅い円形の孔が穿ってある。三味線胴形の張り出しもあり、瀬戸市史編纂監修者からは白鳳期の古代寺院の塔の心柱の礎石であるという見解が出されている。近くに「穴の宮」の地名はあるが寺院を示す遺構・遺物は全く見られず、そうした伝承もない。
しかし、周辺には花崗岩の切り出し場もあり、この場所の近くで作られた礎石が残されたという見解もある。近くの住民の中に「作石(さくいし)」姓が残る。いずれにせよ、寺院の礎石であるとすれば、千余年前の寺院建築の一端を示すものとなり、瀬戸の古代を考える上で貴重な資料である。
(参考文献 『瀬戸の文化財』)