余床町

よどこちょう


昭和39年10月1日、大字名を廃止し町名を設定。もとは上水野のいちぶ。古くは夜床・与床と称したようで、『尾張徇行記』には上水野村の項で「夜床ハ本郷ヨリ丑寅ノ方ニ当リ、一里十町程ヘダチ下品野村沓掛村ヨリノ山隅ニアリ、二区ニ分レ家ハ二十戸ホトアリ」とある。昭和56年曽野町の一部を編入。

本郷町

ほんごうちょう


昭和39年10月1日、大字名を廃止し町名を設定。もとは中水野・下水野の一部。江戸期水野川右岸にあった集落が、明和4年の洪水で海老づるヶ根のふもとに移転したのが本郷である。昭和56年十軒町・小田妻町と境界変更。

三沢町

みさわちょう


昭和39年10月1日、大字名を廃止し町名を設定。もとは中水野の一部。1~3丁目がある。昭和56年一部を川平町・内田町に編入。

中水野町

なかみずのちょう


昭和39年10月1日、大字名を廃止し町名を設定。もとは中水野の一部。1~2丁目がある。
→水野
→マルバタラヨウ・瀬戸市指定天然記念物
→古跡・水野代官所

水北町

すいほくちょう


昭和39年10月1日、大字名を廃止し町名を設定。もとは上水野村の一部。水野村は面積が広いため南北に分けて北側を「水北」、南側を「水南」と呼んでいた。現在の水北町は当時の水野で最北部にあたるところから水北町とした。昭和56年一部を曽野町に編入。
石樋・瀬戸市指定名勝
御林方役所・古跡

曽野町

そのちょう


昭和39年10月1日、大字名を廃止し町名を設定。もとは上水野の一部。山法師山から流出ている山干川(山法師川)の素根で「曽根」と呼ばれたこともある。この集落の奥に穴の宮の地名が残り、附近の方形の礎石は白鳳期の堂塔心礎という説もある。昭和56年水北町の一部を編入し、一部を余床町に編入。
(参考文献:瀬戸警察1987『瀬戸の地名由来その1』 
     「角川日本地名大辞典」編集委員会1989『角川日本地名大辞典 23 愛知県』)
一色山城(水野城)
古跡・曽野の礎石

十軒町

じゅっけんちょう


昭和39年10月1日、大字名を廃止し町名を設定。もとは下水野の一部。十軒町の旧地名「十軒家」の称呼は、藩祖源敬公の遺徳に端を発する。源敬公は徳川家康の第九子,(義直)、藩主になって後、水野山の閑寂を愛し、その山峡にしばしば狩を催して領内の士気を鼓舞し、また駒を進めて定光寺の山色を探った。この所縁により歿するにあたって遺言し、定光寺境内を墳塋の地と定めた。藩祖の歿後、第二代藩主,(光友)瑞龍公も、その供養のために四季折々定光寺の墳塋に詣でた。十軒町付近はその行列の休息所に当てられ、また目鼻石には藩主の風光上覧に供すべく「御賞覧場」が設けられた。しかるに当時は十軒町の付近にはいまだ村落の発達を見ず、一行の休息には甚だ不便であった。よって、瑞龍公は下水野本郷の農家十軒に命じ、引越料及び屋敷,(御除地)を給し、東谷山の東南麓に移り住ませた。
→目鼻石・瀬戸市指定名勝
→古墳・東谷山古墳(尾張戸神社古墳)

内田町

うちだちょう


昭和39年10月1日、大字名を廃止し町名を設定。1・2丁目がある。もとは下水野の一部。昭和56年三沢町・十軒町と境界変更。明治4年,(1767)に水野村は大水害に見舞われ、下水野村は山側へ避難移住した。そして村の南側を内屋敷、北側を後田と呼ぶようになった。瀬戸市に合併し、町名設定の際、両者から一字ずつとって内田町としたものである。
→古墳・四ツ谷古墳群
→古墳・荏坪古墳