水野

みずの


水野川流域、四方を標高200~300mの山に囲まれた小盆地に位置する。古くは水沼(みずぬ)と称したという。

<中世>水野郷:鎌倉期~戦国期に見える郷名。尾張国山田郡(春日部郡?)のうち。水野上・水野中・水野下郷に分かれていた。
<近代>水野村:明治22年から昭和26年の東春日井郡の自治体名。上水野・中水野・下水野の3か村が合併して成立。旧村名を継承した3大字を編成。昭和26年から瀬戸市の一部となり、村制時の3大字は同市の大字に継承。

美濃池

みののいけ


矢田川右岸の水無瀬川流域に位置する。

<近代>美濃池村:明治22年から昭和22年の村名。尾張国春日井郡のうち。美濃之池、美濃野池、美濃ノ池とも書いた。尾張藩領、水野代官所支配。明治13年東春日井郡に所属、同22年八白村の大字となる。美濃ノ池:明治22年~昭和18年の大字名。はじめは八白村、明治39年旭村、大正14年瀬戸町、昭和4年からは瀬戸市の大字。

山口

やまぐち


山口川上流。大坪・大六の縄文遺跡、塚原・吉田の古墳群、大坪・柳ヶ坪の条里遺構などが分布する。瀬戸の焼物の発生は、11世紀中葉の平安灰釉陶窯である山口谷東奥の広久手古窯群に始まる。山口の地名は三河国猿投山への入口であることによるという。

<古代>山口郷:奈良期~平安期にみえる郷名。
<中世>山口村:戦国期に見える村名。尾張国山田郡のうち。
<近世>山口村:江戸期から明治22年の村名。尾張国愛知郡のうち。尾張藩領、水野代官所支配。同22年市制町村制施行により山口村の大字となる。
<近代>菱野:明治22年から昭和60年の大字名。はじめ幡野村、昭和30年から瀬戸市の大字名。

赤津

あかづ


赤津川流域、猿投山北麓の小盆地に位置する。中世・近世の古窯址が多く存在する。

<中世>飽津保:南北朝期から戦国期に見える保名。尾張国山田郡のうち。保内には高田・大屋・大堂・金井今村・白坂・上村などの地があった。
<近世>赤津村:江戸期から明治22年の村名。尾張藩領で水野代官所支配。古くから赤津焼の名で知られ、陶器法を伝えた加藤唐四郎の宅跡は当村にあった。明治13年東春日井郡に所属。同22年市制町村制施行により赤津村となる。
<近代>赤津村:明治22年から大正14年の東春日井郡の自治体名。大字は編成せず。大正14年8月25日に瀬戸町赤津となる。赤津:大正14年から昭和18年の大字名。

片草

かたくさ


品野川最上流域の山間部に位置する。はじめ坂井十郎、のち赤座新兵衛の居城と伝える片草城址がある。

<中世>片草:戦国期に見える地名。尾張国春日部郡のうち。
<近世>片草村:江戸期から明治22年の村名。尾張藩領、水野代官所支配。明治13年東春日井郡に所属。同22年市制町村制施行により上品野村の大字となる。
<近代>片草:明治22年から昭和39年の大字名。はじめ上品野村、明治39年品野村、大正13年品野町、昭和34年から瀬戸市の大字名。同39年片草町となる。

上半田川

かみはだがわ


戦国期に半田川と称された。蛇ヶ洞川上流の山間部。縄文石器の出土地や中世落武者伝承、古窯址の分布など古い歴史を持つ。地名の語源は、花川伝説に蛇ヶ淵の大蛇を射た血が3日3晩花柄のように流れ花川と呼ぶようになり、転じて半田川となった、あるいはこの地を治めていた豪族秦氏の名が訛って現在の地名になったなど諸説ある。

<近世>上半田川村:江戸期~明治22年の村名。尾張国春日井郡のうち。尾張藩領。水野代官所支配。明治13年東春日井郡に所属。同22年上品野村の大字となる。
<近代>上半田川村:明治22年から昭和39年までの大字名。明治39年品野村、大正13年品野町、昭和34年から瀬戸市の大字となる。

沓掛

くつかけ


庄内川左岸の山間部。地域内には半ノ木、月山古窯など、鎌倉期~織豊期の古窯址が数基分布している。

<中世>沓懸:戦国期に見える地名。尾張国春日部郡のうち。中水野村の支郷。
<近世>沓掛村:江戸期から明治22年の村名。春日井郡のうち。沓懸村とも書いた。尾張藩領、水野代官所支配。明治13年東春日井郡に所属。同22年市制町村制施行により沓掛村の大字となる。
<近代>沓掛:明治22年から昭和39年の大字名。はじめ掛川村、明治39年品野村、大正13年品野町、昭和34年から瀬戸市の大字名。同39年定光寺町となる。

品野

しなの


庄内川左岸の山間部から品野川流域の山間部にかけて位置する。狭義には中世の科野郷、広義には江戸期の8か村が統合した東春日井郡品野村,(町)をさす。『尾張志』によれば、「品野とは野に高下の品々あるをいふ名」で、田畑が山の中腹にあって階段状になっていることに由来する地名という。
中世以降の古窯址群からも瀬戸市・赤津地区と並ぶ陶磁器産地の歴史を持つことがうかがわれ、現在も窯業が盛んである。

<中世>科野郷:室町期に見える地名。尾張国春日部郡のうち。
<近代>品野村:明治39年から大正12年の東春日井郡の自治体名。下品野村・上品野村・掛川村が合併して成立。合併各村の大字を継承した8大字を編成。大正13年1月1日町制施行。昭和34年瀬戸市の一部となり、当町の8大字は同市の大字に継承。

白岩

しらいわ


品野川最上流域の山間部に位置する。

<中世>しら岩郷:戦国期に見える郷名。尾張国春日部郡のうち。
<近世>白岩村:江戸期から明治22年の村名。尾張藩領、水野代官所支配。明治13年東春日井郡に所属。同22年市制町村制施行により上品野村の大字となる。
<近代>白岩:明治22年から昭和39年の大字名。はじめ上品野村、明治39年品野村、大正13年品野町、昭和34年から瀬戸市の大字名。同39年白岩町となる。

瀬戸

せと


地名の由来は、「深川神社の東を流れる杁川と瀬戸川とが合流し、落ち合う水音は漲き鳴る。これを湍門(瀬戸・迫門とも書く)と呼ぶ。これより起りて村号を瀬戸と称す。」(「瀬戸考略記」)、「古昔より細倉の西に滝あり。その前の方は古人住居する時、滝瀬の戸に住む故に瀬戸村という」,(「陶器図解・瓷器必要・率揮本」)、「海路の磯近く、山と島の間をいう。迫渡と書く。」(『塩尻』)、「正字は陶所,(すえどころ)の義なるべし。周恵の反し勢、戸は陶なり。陶器を焼く所をさして勢戸とよぶことなるべし。」・「山間の狭きところを迫所(せと)という。」(「尾張地名考」)などの諸説がある。

<中世>瀬戸村:室町期に見える村名。尾張国山田郡のうち。
<近世>瀬戸村:江戸期から明治22年の村名。尾張藩領で水野代官所支配。古くから陶器の村として有名。明治13年東春日井郡に所属。同22年市制町村制施行により瀬戸村となる。土地台帳などには、十三塚、安戸、山崎、一ノ坪、前側、背戸側、池田、印所、宮脇、刎田、紺屋田、古瀬戸、拝戸、東洞、仲洞、東郷、前田、薬師、蔵所、仲之切、郷、一里塚、上ノ切、東茨、西茨、東犬塚、西犬塚、森、清水田の小字がある。戸番は、瀬戸村大字瀬戸一番戸から何千番戸と通し番号であった。
<近代>瀬戸村:明治22年から25年の東春日井郡の自治体名。同25年町制施行。

瀬戸町:明治25年から昭和4年の東春日井郡の自治体名。31年から戸番を廃止し地番に変更。大字は編成せず。大正14年8月25日赤津村、旭村今・美濃ノ池を合併。同時に旧瀬戸町は瀬戸となり、赤津・今・美濃ノ池の3大字を加えて4大字の編成となる。合併以前の瀬戸町には一区から十一区までの区制があり、一区は洞、二区は一里塚と西に番号が付けられた。昭和4年10月1日市制施行。同5年の市議会で旧瀬戸町の区制は逆に安戸方面を第一区とし、東に順次区番がふられ二十二区まで、今村は二十三・四区、美濃ノ池は二十五区、赤津は二十六・七区と改められたが、昭和16年区制は廃止された。同時に大字を廃止し町名設定の議決が行われた。昭和26年5月3日水野村、同30年2月11日4月1日幡山村、同34年品野町を編入合併した。