昭和17年2月1日、大字名を廃止し町名を設定。もとは瀬戸の一部で、明治期の瀬戸村大字瀬戸字背戸側・池田・印所の一部。昔この地に滝があり、冬になると湯のごとく湯気が立ち昇ったことから滝の湯の地名が生まれた。大正の初めになると、この滝ノ湯を瀬戸一大繁華街にしようということで芝居小屋、料理屋、風呂屋もでき、玉突きもできた。そして芝居小屋の前を相生町といい南側を住吉町と呼んだ
→歌舞伎座
投稿者: setopedia
宝ヶ丘町
たからがおかちょう
昭和56年3月31日、大字名を廃止し町名を設定。もとは山口の一部。江戸期は瀬戸村道の瀬戸坂の登り口にあたった。戦後山口字北山にバス停を設置するにあたり、宝屋という食堂の前にできることとなったので「宝ヶ丘」と名付けられた。町名設定のとき、そのバス停名を町名にした。
高根町
たかねちょう
当地区は瀬戸土地改良第三工区にあたり、昭和49年11月2日に町名が設定された。もとは本地の一部。1~3丁目がある。
台六町
だいろくちょう
昭和54年12月1日、大字名を廃止し町名を設置。もとは菱野の一部。江戸時代の村絵図にも記載される地名であるが、近年まで山林丘陵地であった。
→古窯・大草古窯跡群
太子町
たいしちょう
昭和18年8月9日、大字名を廃止し町名を設定。もとは赤津の一部。この地にある万徳寺の「太子堂」が地元民から親しまれてきたところから、あるいは太子山万徳寺の北の門前にあたることによるとされる。
祖母懐町
そぼかいちょう
昭和17年2月1日、大字名を廃止し町名を設定。もとは瀬戸の一部で、明治期の瀬戸村大字瀬戸字上ノ切の一部。祖母壊は、「ウバガフトコロ」または「ウバノフトコロ」とも呼ぶ。「姥懐」「乳母ヶ懐」「姥母の懐」「叔父の懐」などといった地名が全国各地に分布する。三方を丘陵に抱かれた正面が日向があたっている地形を指す語という。陶祖藤四郎が諸国を巡歴ののち、この地で初めて領土を発見し、瀬戸永住の意を決したと伝えられる。また尾張藩祖義直によって名古屋城内に御老深井窯が起こされると、もっぱら原土を祖母壊から採取し、二代光友の時代には、この土の私用を禁じたといわれる。実際土の採れたとされる所は、現在春雨町と名付けられている。
曽野町
そのちょう
惣作町
そうさくちょう
昭和18年8月9日、大字名を廃止し町名を設定。もとは赤津の一部。
→集落跡・惣作・鐘場遺跡
背戸側町
せとがわちょう
昭和17年2月1日、大字名を廃止し町名を設定。もとは瀬戸の一部で、明治期の瀬戸村大字瀬戸字瀬戸字背戸側の一部。背戸は瀬戸の元の字であるとか、猿投山の裏側ともいわれる。
瀬戸口町
せとぐちちょう
昭和53年12月26日、大字名を廃止し町名を設置。もとは菱野の一部。国鉄岡多線(現愛知環状鉄道)の建設の折、駅名を「瀬戸口」と決め、町名も駅名も同じものにした。