明治36年(1903)1月6日~昭和40年(1965)11月20日
東春日井郡品野町(現瀬戸市)に生まれる。愛知県立陶器学校(現愛知県立瀬戸窯業高等学校)、東洋大学専門学部東洋文学科を卒業し、大正15年(1926)安城高等学校に国語教師として就職する。昭和9年(1934)頃より、やきものに興味を覚え収集を始める。昭和23年(1948)、母校の瀬戸窯業高等学校に転任。同校60周年で記念館に陳列室ができ、当時の赤塚幹也校長が大量の研究用の陶片を寄贈、陶磁史クラブは顧問紋平の指導で整理・分類・復元作業を行い、古窯調査の基礎を作る。昭和24年(1949)、瀬戸陶磁器研究会を組織し、瀬戸染付回顧展、徳川期陶芸回顧展を開催する。昭和30年(1955)、日本陶磁協会瀬戸支部主催の古陶磁展で活躍、この頃より『陶説』、地方紙等に研究成果の記事を投稿した。本多静雄・加藤唐九郎・楢崎彰一・谷口順三らと親交があり、瀬戸の陶業界に古陶器の研究・発掘で大きな影響を与えた。昭和40年(1965)、62歳で脳出血により急逝。翌年、本多静雄の発起により、楢崎彰一・若杉敬らが中心となり遺稿集『瀬戸のやきもの』が風媒社から刊行された。