小山 冨士夫

こやま ふじお


明治33年(1900)3月24日~昭和50年(1975)10月7日
岡山県玉島郡上成村(現倉敷市)に生まれる。大正9年(1920)東京商科大学(現一橋大学)に入学、その後退学し社会主義思想に興味を持ち、カムチャッカで蟹工船に1年近く乗ったりもした。大正14年(1925)、瀬戸の陶芸家矢野陶々に弟子入りし人一倍働き技術を習得、小長曽窯跡をみたことが古窯発掘へ引き込む発端となる。昭和7年(1932)、東洋陶磁研究所研究員となり、研究誌『陶磁』の編集に携わるうちに学者への道を進むようになる。昭和21年(1946)日本陶磁協会が発足し理事に就任、昭和25年(1950)文化財保護委員会が発足し、同事務局美術工芸課、無形文化課に勤務し工芸の調査、文化財指定に携わった。昭和36年(1961)「永仁の壷」の重要文化財指定解除問題により、文化財保護委員を辞職。この事件で一切の公職から身を引いた。昭和39年(1964)から鎌倉の自宅で作陶を再開し、昭和47年(1972)には岐阜県土岐市に花の木窯を築窯した。昭和48年(1973)東洋陶磁学会が発足し、常任委員長に就任した。官職を退いた後も、著述や作陶で多忙を極めた。
日本を代表するやきもの産地の瀬戸・常滑・信楽・丹波・越前・備前の六産地を「六古窯」の名称を提唱したのは小山冨士夫である。