水野 権平

みずの ごんぺい


 水野氏は古代より在地支配を行う土豪で、江戸時代になってからも尾張藩に召抱えられた。水野氏は大坂の陣後、在地事情の明るさと特殊な技能である「御狩御用」をもって初代藩主義直に召しだされる。水野太左衛門致番、水野久之丞正勝、水野勘太夫正照は「水野御案内之者」をつとめる。この間に御林への関与が主体となり、そして御林奉行設置にあたってその延長として役割に携わっていく。 初代御林奉行に水野権平正秀(享保元・4・28~同16・7・9)、水野権平正興(元文4・7・23~安永4・8・13)、水野権平正恭(安永4・10・5~文化7・2・14)、水野権平正摸(寛政2・2・29~文化10・4)、水野権平正矩(文化7・2・14~天保15・4・29)、水野権平正盛(天保15・6・24~文久3・12・12)、水野権平正保(元治元・2・5~明治元・12・16)と続き、正恭・正摸は水野代官も兼ねた。また、正保は明治元年12月16日から同4年10月5日まで東方総監参謀助役をつとめた。
⇒御林方役所、水野代官所参照