橘 筬丸

たちばな とまる


昭和18年(1943)6月19日 市長に就任
昭和20年(1945)11月5日 退任

明治15年(1882)12月9日香川県高松市に生まれる。20歳のとき瀬戸へ来て河並内科医院にしばらくいたが、24歳になって東京へ出た。慈恵医大を卒業、さらに東京帝大医科選科生として研鑽に努めた後、明治41年(1908)9月瀬戸に帰り蛭子橋のたもとで開業した。識見非凡奇才で稀に見る人格者で、すぐれた雄弁の持ち主であった。性来政治家としての素質を持つ橘氏は、大正8年(1919)9月に推されて郡会議員の選挙に立候補し、当選している。
戦局が混迷するなかで、水野憲吾市長の後任として推されて第六代市長に就任する。昭和20年(1945)にはいると本土空襲が激しくなり、瀬戸市では3月に新開地から京町、5月には本地で空襲があった。そして同年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し戦争は終結した。戦時市政に日夜尽力を傾けたが、終戦とともに11月その職を辞任した。