瀬戸地域のはげ山や崩落地の存在は大雨による山崩れや土石流を起こし、人家を襲って人命を奪ったり河川の堤防を決壊させて大被害をもたらした。中でも昭和32年(1957)8月7日夜から8日夕刻にかけて岐阜県多治見市から瀬戸市、藤岡村一帯を襲った集中豪雨では、愛知県下で死者33名、家屋全壊・流失88戸、床上・床下浸水27,000戸余、田畑流失・冠水879ヘクタールという大災害となった。被害の中心は瀬戸市であった。新愛知タイムズは、「泉町一帯は市街地北に広がる鉱山に隣接した地域であった。粘土鉱山の刎土の上に造成された宅地が崩れた災害であった。この時の瀬戸市の降雨量は372mmと記録されている。結局泉町一帯の死者は22名となったが、水野川上流の品野町上品野地区、中品野地区でも鉄砲水による死者3名、行方不明者6名が出た」と伝えている。
瀬戸市の災害概況について、次のように記述した報告書が残されている。
1.人的被害
①り災者総数 10,551人
②死者 23人
③重軽傷者 25人
原因は、死傷者はすべて付近の山崩れによる圧死傷によるもの、り災者は、同様に付近の山崩れと瀬戸川流域一帯の氾濫によるものとされている。
2.住家の被害
①全壊 33戸(154人)
②流失 3戸( 20人)
③半壊 48戸(175人)
3.生産工場等の被害
①陶磁器生産工場
イ、全壊、半壊等 25工場
ロ、土砂の流入 146工場
ハ、浸水工場 351工場
②珪砂工場
イ、珪砂工場 26工場
4.住家の浸水
①床上浸水 519戸
②床下浸水 2,130戸