定光寺の名で知られる応夢山は、中・古生層から成り、標高が271mで高山の部類に入るものではない。しかし、市境(県境)を流れる庄内川(玉野川)の峡谷より一気にせり上っており、実際以上の高さを感じさせる勾配である。庄内川に架かる城嶺橋付近では、新鮮な中・古生層の砂岩と頁岩の互層や砂岩とチャートの互層が見られるのに対して、本山では風化作用が進み土壌化して多くの照葉樹を育てている。「定光寺縁起」によると、当山の開山は肥後の人千葉氏で、その母一夜地蔵菩薩の霊夢を感じて生れたと言われ、九才で出家して鎌倉建長寺で修行の後、五十四才の時尾張の国を遊歴して、水野の里人跡未踏の地を卜して座禅をしておられた。遠近の人々それを伝え聞き、教を請い帰依する者多く、5年の後、本堂を建立することとなり、その位置が決定したとき、ある夜不思議にも、そこから定光仏と言う霊像を掘出した夢を雲水一同が見たので、禅師は定光寺と名づけ、山号を応夢山としたとある。定光寺(覚源禅師開創)には、尾張藩祖徳川義直公の廟所がある。