永仁の壺事件

えいにんのつぼじけん


1943年(昭和18年)頃、当時東春日井郡上志段味村(現名古屋市守山区)で発掘されたといわれる高さ27㎝、口径4㎝の酒器記で、正式には「瀬戸飴釉永仁銘瓶子」という壺に関わる事件である。永仁二甲午年十一月、水埜政春作というこの壺が1959年(昭和34年)に重要文化財に指定された後、瀬戸市の古陶磁器研究家らによって「偽物」との意義申立てがあり、事件へと発展していった。文化財保護委員会と古陶磁研究家たちとの間で様々なやり取りがあったが、1960年(昭和35年)日本を去ってヨーロッパへ旅立った、事件の中心人物である、陶芸家加藤唐九郎の「私が作った」という声明により一段と混迷の度合いを深めた。しかし、これ以後、事件に関する納得のいくコメントは得られず、事件の徹底解明にはならなかった。加藤唐九郎を語るうえにおいては欠くことのできない事件であり、また当時の瀬戸では、このセンセーショナルな事件にあやかって、「永仁湯呑」「永仁最中」「永仁観光バス」「永仁定期預金」等のブームをひきおこした。まことに奇妙な事件である。