昭和18年8月9日、大字名を廃止し町名を設定。もとは赤津の一部。山路嶋は江戸期からの郷で、『尾張徇行記』にも「支邑山路ト云、是ハ本郷ヨリ二十町ホトヘタチ、三州猿投山境ニアリ、元ハ本田所ナリシカ、頽敗シテ再見取畠ヲヒラケリ、此山路ハ万治年中ニ再興スト也」と記し、弘化2年の記録では戸数4戸の集落であったとあり、江戸時代には赤津村の支村として山路があったとされる。山路町は、猿投山の西山麓に位置し、山口町から猿投山に登る険しい山道があるところから、山路と呼ばれるようになったといわれる。
昭和18年8月9日、大字名を廃止し町名を設定。もとは赤津の一部。山路嶋は江戸期からの郷で、『尾張徇行記』にも「支邑山路ト云、是ハ本郷ヨリ二十町ホトヘタチ、三州猿投山境ニアリ、元ハ本田所ナリシカ、頽敗シテ再見取畠ヲヒラケリ、此山路ハ万治年中ニ再興スト也」と記し、弘化2年の記録では戸数4戸の集落であったとあり、江戸時代には赤津村の支村として山路があったとされる。山路町は、猿投山の西山麓に位置し、山口町から猿投山に登る険しい山道があるところから、山路と呼ばれるようになったといわれる。