昭和17年2月1日、大字名を廃止し町名を設定。もとは瀬戸の一部で、明治期の瀬戸村大字瀬戸字紺屋田。天保12年の瀬戸村の村絵図には、「ゴイ墳」の記載がみえる。また、品野町に伝わる古記録に「現在、五位塚のあたりを馬場と言い、こひ塚と呼ぶ塚がある」と記載される。また瀬戸町誌には「町の東端、品野に至る所を五位塚という。陶祖春慶の墓ありし所といい伝う。陶祖五位諸大夫なりしが故なり」という一文もあり、「五位塚」について諸説あるものの、これがそのまま地名化した。
昭和17年2月1日、大字名を廃止し町名を設定。もとは瀬戸の一部で、明治期の瀬戸村大字瀬戸字紺屋田。天保12年の瀬戸村の村絵図には、「ゴイ墳」の記載がみえる。また、品野町に伝わる古記録に「現在、五位塚のあたりを馬場と言い、こひ塚と呼ぶ塚がある」と記載される。また瀬戸町誌には「町の東端、品野に至る所を五位塚という。陶祖春慶の墓ありし所といい伝う。陶祖五位諸大夫なりしが故なり」という一文もあり、「五位塚」について諸説あるものの、これがそのまま地名化した。